このブログを検索

2014年5月22日木曜日

1964年新潟地震における貯蔵タンクのボイルオーバー事例

 今回は、Loss Prevention Bulletin(June 2013)に掲載された消防庁消防研究センター古積博氏、岩田雄策氏らの「Multi-Boilover Incidents in Oil and Chemical Complexes in the 1964 Niigata Earthquakes」(1964年新潟地震における石油コンビナートの複ボイルオーバー事例)を紹介します。
図3 エリアAにおける原油タンク火災の初期段階
要 旨
 日本はこれまで多くの地震に遭ってきた。地震が起こると、油槽所、製油所、石油化学などの工場もまた被害を受けてきた。この論文では、日本において地震によって被害を受けた石油タンクの事故の歴史をまとめるとともに、1964年新潟地震の被災状況についてまとめた。 1964年新潟地震は、日本の歴史上、最も大きな災害を被った石油コンビナートの事例である。この事故では、火災が12日間続き、約150基の石油タンクが延焼し、ボイルオーバーが数回起こった。

はじめに
■ 大地震では、多くの死傷者が出たり、産業にダメージを与えるなどの大きな被害をもたらす。日本では、過去からこのような災害を何度も経験してきた。最近でも、2012年3月11日の大地震と津波によって多くの人が亡くなり、福島原子力発電所がメルトダウン事故を起こし、石油コンビナートの施設で被害が生じた。

■ これらの災害について日本国内では詳細が報告されているが、英文に翻訳されているものが多くないため、事故の多くは日本以外ではあまり知られていない。このため、これらの災害のいくつかについて紹介するとともに、特に1964年新潟地震における石油コンビナートの被害状況と火災に伴って起こった数回のボイルオーバーについて解説する。

日本における石油コンビナートの災害の歴史
■ 表1は日本におけるタンク施設の災害事例を示す。関東大地震は東京と近郊地区に大きな打撃を与え、約105,000人が亡くなった。横須賀には海軍基地があり、燃料油貯蔵用のタンク・ターミナルが被災した。横須賀港地区では、タンク火災と油流出が2週間続いた。確証はないが、火災記録からすると、燃料油タンクでボイルオーバーが起こっていたのではないかと思われる。

■ 1964年6月に新潟地方で起こった地震は石油コンビナート地区に大きな被害を与えた。約150基の油タンクが火災となり、他に90基ほどのタンクに被害が出た。原油や燃料油を保有していたタンクでは、ボイルオーバーが数回起こっている。事故後50年近く経過しているが、英文での報告書が発表されていないため、この事故について海外ではあまり知られていない。
表1 日本における地震による油タンクの事故事例
1964年新潟地震
概 要
■ 表2に1964年新潟地震の概要を示す。新潟市は東京から北250kmに位置し、日本海に面しており、石油コンビナートがある。多くの建物や家屋が被害を受けたが、火災は工業地帯近くの家屋に限定された。石油コンビナートを含む新潟市域は津波に襲われた。石油コンビナートを含む市街地の大部分に地震による液状化現象が発生した。おそらく液状化によると思われる橋の損壊が起こった。
表2 1964年新潟地震の概要
*報告書によって数値が異なる  
図1 西地区からの光景                図2 焼けたタンクの例
石油コンビナートの被害 
■ 新潟の石油コンビナートは大きく、その中には製油所と数百基の石油タンクがあった。火災の多くはシェルグループの昭和石油の製油所において起こった。(図1、2、3を参照) 図4は、石油タンクの大半が火災を起こした石油コンビナート地区をA、B、C、D、Eの5つに分けてみたものである。
図4 新潟市東部の石油コンビナートの配置
■ エリアAには、大型の原油貯蔵タンクが5基(表3を参照)あったが、No.1103タンクから出火したのち、全タンクに延焼した。 No.1103タンクでは、地震による油の揺動で油が側板を越えて溢流し、屋根とタンク側板が衝突したことによって火災が起こったものとみられる。
表3 エリアAにおけるタンクの概要
■ エリアBでは、津波の影響を受け、ガソリン、灯油などの油が海に流出した。2番目の火災は、昭和石油と三菱金属の境界付近で起こった。火災の着火源は、保管されていた金属(おそらく鉄粉)と海水の化学反応による発熱と思われる。エリアBには揮発性の油が漏洩していたため、火災はすぐに広がっていった。図4の矢印は火災の広がりの方向を示す。

■ エリアAには大型の原油タンクが5基あり、エリアCには灯油と原油タンクがあり、エリアDには重油タンクがあった。エリアEには、原油をはじめ、いろいろな油種を貯蔵していたタンクが数多くあった。

■ 新潟市の西地区には日本石油の製油所があり、大量の油が漏洩していたが、火災は発生しなかった。

■ 最初にNo.1103タンクで発生した火災は、短時間でエリアAの全タンクに広がった。6月18日23時(地震発生から約58時間経過)、 No.1103タンクにおいてボイルオーバーが起こった。ボイルオーバーは他のタンクでも起こったが、発生回数ははっきりしていない。しかし、ボイルオーバーが起こったことによって、エリアAの火災を消火することは極めて困難になり、火災は6月28日まで続いた。

■ 三菱金属との境界付近で発生した2番目の火災は、エリアCの西および南の方向へ広がり、さらにエリアDとエリアEへと拡大していった。エリアDには10基のタンク(ガソリン、灯油、軽油)があったが、幸いなことに消防隊の活動によって延焼を免れた。

■ ボイルオーバーは、エリアBの重油タンクで発生し、さらにエリアCとエリアDにあった原油タンクでも起こった。ボイルオーバーの正確な発生回数は明確でないが、おそらく少なくとも4・5回あったとみられる。

事故の時系列
■ 津波によって新潟港は被害を受けた。地震によって液状化が起こり、揚圧力や噴砂の現象が生じ、油タンクや施設にダメージを与えた。石油コンビナートでは4か所で火災が起こっていた。

火災の始まり
■ 4か所の火災の概況を以下に示す。

昭和石油の製油所
■ 火災は地震直後に原油タンク地区で発生した。地震による油の揺動によって原油が飛散し、火災に至った。その後、火災はエリアA内のタンクに防油堤を越えて広がった。合計5基のタンクが火災となり、ボイルオーバーは2基あるいは3基のタンクで起きたとみられる。

昭和石油と三菱金属の境界付近
■ 地震発生後、約5時間経過して2番目の火災が発生した。この地区の製油所側では、深さ約0.5mの海水に浸かっていたが、損壊した油タンクや配管から漏れた揮発性の油の層が水に浮いていた。 このため、火災は水上を容易に広がっていった。結局、計138基のタンクが火災あるいは損傷を受けた。

ナルマス・オイル
■ 蒸留装置の製品を貯蔵する容量100KLの燃料タンクが地震によって損傷した。漏れた油に引火し、火災は水の上を走って建物へと広がった。火災は6月17日午前4時に鎮火した。

ニットー・ファイバー
■ 埋設のパイプラインから原油が漏れ出し、引火した。火は水の上を伝わって広がり、6月17日午前5時に鎮火するまで火災が続いた。

消防活動
■ 火災時における主な出来事と消防活動の概要を表4に示す。発災初期において地元消防署は市街地の災害対応に集中した。石油会社の消防隊は6月17日の早朝から活動を始めた。しかし、6月16日、17日の消防活動は不十分なものだった。その後、東京消防庁と他市の消防署の派遣部隊が支援に駆けつけた。この消防活動によってエリアDにあった製品油タンクの延焼防止に成功した。
表4 火災時における主な出来事と消防活動の概要
タンク火災およびボイルオーバー
■ 異なるタンクでボイルオーバーが何回か起こったということは、いろいろな報告の中で言及されているが、正確な情報は明らかでない。火災発生から約58時間経過後、最初のボイルオーバーがNo.1103タンクで起こった。ボイルオーバーの発生までの時間が長かったのは、浮き屋根が浮力機能を有してリムシール火災の様相が長く続き、油への熱移動が小さく、油の燃焼速度やヒートウェーブ下降速度が遅かったためである。ヒートウェーブ下降速度は0.25m/hと推算している。 No.1103タンクでは、ボイルオーバーが2回以上発生した。

■ エリアC、D、Eには、エリアAと同様、ボイルオーバーを起こす恐れのある原油や燃料油のタンクがあった。事実、これらのタンクのいくつかはボイルオーバーが起こっているが、正確な発生時間や回数は分かっていない。エリアEにあった小型タンクで3日後にボイルオーバーが起こっている。ボイルオーバーが遅く起きたのは、前述の理由と同じだと思われる。何度もボイルオーバーが発生するような状況にあり、消防活動は困難を極めてが、消防隊には大きなケガをする消防士が出なかった。このような厳しい条件のもとで、消防隊は最善を尽くした活動を行なった。

教 訓
■ 新潟地震当時の日本にも、危険物の取扱いおよび貯蔵に関する法令があったが、この地震を契機に改正された。火災からの教訓と法令の改正内容はつぎのとおりである。
(1) 防油堤が地震で簡単に壊れたので、防油堤の強度が災害を教訓にして改正された。
(2) 油タンクの構造に関する法令が災害を教訓に改正された。
(3) 火災が民間の家屋にまで達したので、石油施設のレイアウトに関する法令が見直された。
(4) エアフォーム・チャンバーは全タンクに設置されていたが、そのほとんどは機能しなかった。このため、エアフォーム・チャンバーは火災警報システムと自動的に連動して作動すべきとされた。

まとめ
■ この論文では、日本における地震の歴史とその地震による石油コンビナートの被災状況についてまとめた。

■ 1964年新潟地震では、大型の石油タンクが火災に至り、原油および燃料油を貯蔵していたタンクのいくつかはボイルオーバーが発生した。地震と津波によって新潟市は甚大な被害を受けたが、火災の消防活動時には、東京消防庁の尽力もあってケガをした人はほとんどいなかった。

■ 2011年における日本の地震は、地震のような自然災害時に私たちが危険に直面するということを思い出させた。
新潟地震後の市内光景
(新潟製油所の火災発生、手前は信濃川に落ちた昭和大橋)
(写真はblogs.yahoo.co.jpから引用)
補 足                 
■ 「消防研究センター」(National Research Institute of Fire and Disaster)は消防庁の研究機関で、火災原因究明のための調査・試験や消防資機材の開発など消防の科学技術に関する研究開発を総合的に行っている。もともと1948年に創設された「消防研究所」が前身で長い歴史をもった機関であるが、現在は消防庁消防大学校に設置されている形となっている。
 著者の古積博氏と岩田雄策氏は消防研究センターの危険性物質研究室に所属する専門家である。古積氏はボイルオーバーを専門分野の一つとして研究され、多くの論文を発表されている。

■ 「昭和石油 新潟製油所」は1953年に建設され、 40,000バレル/日の精製能力があったが、1999年に精製装置は停止され、現在は「新潟石油製品輸入基地」として石油タンク基地となっている。「昭和石油」は1985年にロイヤル・ダッチ・シェル傘下のシェル・ペトロリウムと合併し、「昭和シェル石油」と改称されている。なお、旧新潟製油所跡地には、2010年、太陽光発電施設「新潟雪国型メガソーラー発電所」の稼働を開始させ、日本の石油元売大手が商業用の太陽光発電事業に初めて着手するケースとなり、2012年にはさらに増強し、現在8MW規模のメガソーラー発電所となっている。
 一方、新潟地震時に火災発生のなかった日本石油新潟製油所(26,000バレル/日)も1999年に精製装置を停止している。
最近の昭和石油新潟製油所の跡地付近(現;新潟石油製品輸入基地)
(写真はグーグルマップから引用)
■ 昭和石油新潟製油所の火災に関する消防活動は、予防時報「新潟地震に伴う昭和石油製油所火災戦闘記」、小野寺慶治(196410月発行)に詳しく述べられている。(残念なことに、ブロック分けとタンク番号を記載した図が添付されていない) 小野寺氏は、当時、東京消防庁消防監として派遣部隊の本部長として現場活動に参画し、地震による損傷と津波による被害を含む広域のタンク火災という過酷な条件の中で、現在からみれば貧弱な消防資機材でよく奮闘されていることがわかる。
 火災の消火活動で得た19項目の教訓が述べられており、広域の複数タンク火災に直面した経験は現時点でも参考になる。以下にその例を列記する。
 ● タンク容量、現在量、油種などを早く調査して消火活動の重点を決定し、対応部隊を決定しなければならない。しかも、未燃タンクの受ける温度を測定し、タンクの温度を測定し、さらにその後の変動をいち早く察知しなければならない。
 ● タンクの油量が少なければ少ないほど、内部ガス圧が加熱により急激膨張をなし、タンク屋根が噴き飛んだり、あるいは屋根が裂けて口をあける。
 ● 燃焼しているタンク側板は、油レベルまでは変色しないが、上部燃焼部分は焼けさびとなる。さらに長時間燃え続けると、タンク側板上方は溶解して内部へ垂れ下がり、屋根部のないタンクでは油量が少なくなるにつれて低くなり、高さ3~4mくらいで止まる。また、屋根部が口を開けて燃え続けるタンクは、その部分がゆがみ、肩部が下がって変形する。この場合、タンク内部は不完全燃焼のため、火勢は弱い。 

 ● 堤内火災で、配管のバルブやタンクの下部マンホールが長時間火災に曝されると、パッキンや締付けボルトが狂い、漏油するようになり、これがまた燃え続ける。
 ● 屋根部の飛んだタンクは、大きく口を開けて燃え、ときどき爆音を発する。これは、燃焼中に風のため空気がよく入り、完全燃焼する時に起きるものであり、またタンクの内部は空気の流通が悪いため、火勢は弱いが、縁から上方は急激に完全燃焼を起こし、上昇速度が非常に速い。従って、射程の短い泡放射を行っても、タンク内に泡は入らず、飛ばされてしまう。(タンクが高い場合)
 ● 燃焼しているタンクから受ける輻射熱は相当高温であるが、空気の対流作用が激しいため、周囲から流入する冷たい空気のため呼吸は楽である。

 ● 注水によるタンク冷却は効果があるが、防油堤内の排水を考慮しなければならない。水位が高まり、防油堤の外に漏れ出し、火面を広げないように留意すべきである。防油堤が地震によって壊れている箇所があった。
 ● 地上流出油火災は噴霧消火で十分効果をあげられるが、広範囲の火災には、その幅だけの噴霧ノズルを用いないと、側面から火が回り、退路を遮断される危険があるので、消火した部分を土砂などにより区切って行くようにするのが大切である。
 ● 筒先隊員はもちろん指揮者も機関員も平常火災と同じ人数では、長時間高温下の活動には耐えられない。常識的に考えて、指揮者と機関員は2人宛とし、筒先担当者は9名以上として3班に分け、10~20分宛交代させるようにしなければ、隊員の疲労がかさみ、危険である。
 ● 長時間かつ灼熱下での活動では、消火ノズルは方向を変えられる固定式放水銃のようなものが必要だった。放射能力は1,500 L/min、射程40~60m程度のものが必要である。東京消防庁の化学消防車のノズルは射程も短く、隊員が手で持つタイプであったから、疲労と危険が伴っていた。 (注:当時の消火資機材のレベルが想像できる)

■ 「No.1103原油タンク」は、地震による油の揺動で油が側板を越えて溢流し、屋根とタンク側板が衝突したことによって火災が起こったものとみられるが、「昭和39年新潟地震昭和石油株式会社 新潟製油所火災」(消防庁)によると、「地震とともに屋根が3~4回側板より上方に揺動し、同時に上部から側板に沿って原油が周囲に溢流した。そして、4回目くらいの揺動時に火災が発生した」とある。
  No.1103タンクは容量30,000KLで直径51.5mであった。現在の消防法によると、必要な大容量泡放射砲の放水能力は20,000 L/minである。これは泡放射量約9.6 L/min/㎡に相当する。当時の消防車の性能では消火できないし、小野寺氏の要望した放射能力1,500 L/min程度では勿論、現在の大型化学消防車(放射能力3,000 L/min程度)を複数台配置しても消火できない。
 実際、燃え尽きる戦略がとられた。しかし、No.1103などのタンク群の西隣に主装置があり、さらに延焼を免れている製品油タンク群があった。このため、6月20日、燃え尽きる戦略のほかNo.1103タンクのボイルオーバーによる被害防止策として、タンク群と主装置間の道路に土砂による堤防を構築する戦術がとられた。この堤防(長さ200m、高さ70cm、幅1m)は、煙と熱気の中、自衛隊100名で約2時間余で構築されている。

■ 「1964年新潟地震」は新潟国体の終わった4日後に起こっている。そして、4ヵ月後に1964年東京オリンピック(10月10日開会式)が開催された。地震直後は大きなニュースになったが、東京オリンピックがあったため、その後は地元以外に忘れられた感がある。しかし、現在、インターネットに投稿されている新潟地震に関する情報は少なくない。新潟地震による災害を表した写真の一部を以下に紹介する。 
信濃川を逆流する津波は海抜0m地帯に流れこんだ。左上は八千代橋。 (新潟日報)
(写真はmoekire2.exblog.jpから引用)

地震、タンク火災、そして津波、油の浮く濁水の中を手を取り合い、東港線道路を避難する子供達
(写真は13.plala.or.jpから引用)

新潟市川岸町の鉄筋四階建て県営アパート群が地震でゆっくりと倒れたが、幸い死傷者はなかった
(写真は13.plala.or.jpから引用)
所 感
■ 1964年新潟地震があったことは知っているが、このように凄まじい災害だったとは思っていなかった。2011年東日本大震災前であれば、おそらく極めて稀な事例という位置づけで終わっていただろう。しかし、新潟地震の状況を見ていくと、東日本大震災時の津波による石油タンク損傷と油流出、LPガスタンク爆発・火災などの被災状況と重なる。
 現在は1964年当時より確かにタンク施設は強化され、消防資機材も充実した。しかし、今の石油タンクの事故想定は基本的に単発事故(タンク1基の事故)である。だが、単発事故に制限してくれる保証は何もない。 1964年新潟地震や2011年東日本大震災の事例をみると、堤内火災を伴ったタンク火災や複数基火災を仮想しておくべきである。
 
■ 消防資機材が充実したとはいえ、例えば、大容量泡放射砲システムは指定区域に1セット(最大タンクを対象)である。地震により同区域の複数基のタンクが全面火災になった場合、誰が、どのような判断で、どこに大容量泡放射砲システムを送り込む決断をするのか考えておく必要がある。特に原油タンクはボイルオーバーの発生する可能性があり、余裕時間はない。今回、新潟地震における火災タンクのヒートウェーブ下降速度は0.25m/hと推算されているが、これは極めて稀な遅い例である。ヒートウェーブ下降速度の仮定値を設定し、ボイルオーバーの発生時間を推算して消火戦略を計画しなければならない。 

 備考
 本情報はつぎの資料に基づいてまとめたものである。
  ・「Multi-Boilover  Incidents in Oil and  Chemical Complexes in the 1964 Niigata Earthquakes, Loss Prevention Bulletin 231 June 2013
        Hiroshi Koseki*, Gilles Dusserre**, Yusaku Iwata*
          *National Research Institute of Fire and Disaster, Japan
          ** Ecole des Mine d’Ales, France 



後 記: 今回の情報は逆輸入版です。しかし、1964年新潟地震のタンク火災の状況についてこれまで知らなかったので、興味深い資料でした。今年の6月16日でちょうど50年です。この50年間に新潟製油所は閉鎖され、タンク施設は別な形態で継続されており、時代の移り変わりを感じます。製油所の閉鎖といえば、地元周南市の出光徳山製油所の精製装置が3月に停止し、解体工事が始まりました。大型のクレーンが据え付けられ、現在は煙突の解体中です。写真では、まだ筒身が立っていますが、すでに半分が無くなっています。構外からは煙突や高いタワーしか見えませんが、精製装置のすぐ際を山陽新幹線が走っていますので、新幹線の車窓から解体状況がよく見えるでしょう。  

0 件のコメント:

コメントを投稿