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2016年6月6日月曜日

米国バトンルージュの貯蔵タンク複数火災における消火活動(1989年)

 今回は、石油貯蔵タンク基地などで起った火災事故の消防対応の業務などを行う会社として有名なウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社が公開しているCode Red Archivesの中から、1989年12月24日、米国ルイジアナ州バトンルージュにあるエクソン社の製油所で起った爆発から石油タンク16基が延焼し、この消火活動にウィリアムズ社が応援で出動した事例を紹介します。
< 発災施設の概要 >
■ 事故があったのは、ルイジアナ州バトンルージュのミシシッミー川東岸にあるエクソン社(Exxon Corp)のバトンルージュ製油所(Baton Rouge Refinery)である。
 エクソン社は、1911年にスタンダードオイルの分割によって生まれたテキサス州に本拠地をもつ総合エネルギー会社である。発災のあった1989年当時はエクソン社だったが、その後の1999年にエクソン社とモービル社が合併してエクソンモービル社(ExxonMobile Corp)になっている。バトンルージュ製油所は1907年のスタンダードオイル時代に建設された製油所である。

■ バトンルージュ製油所は、2,100エーカー(850万㎡)の敷地に50万バレル/日の精製能力を有する製油所のほか、生産能力が35万バレル/日の石油化学工場をもち、1,000を超す生産プラントがある。
 施設内には、 3段のパイプラックに配管群が動脈のように走っていた。パイプラックの一番上に敷設されていた配管のひとつに、ガーデン・シティ・ラインと呼ばれるパイプラインがあった。この1,500psiクラスで8インチ径の配管は、57マイル(91km)南のガス田から天然ガスを移送していた。製油所に受入れられた天然ガスは、脱ブタン装置で C3より軽い留分が回収され、精製される。最初の爆発発生のきっかけになったのが、このC3より軽い石油製品用の8インチ径高圧配管である。

■ 発災のあった1989年のクリスマス・シーズンは、異常天候によって天然ガスの需要が高かった。バトンルージュの12月における通常の平均気温は10℃であるが、その年のクリスマス前は零度を下回る気温が続いており、クリスマス・イブの前日夜は-12℃だった。この異常低温のため、製油所では、クリスマス休暇を返上して対応がとられていた。ガス田が氷結して天然ガス量が減ったため、ガーデン・シティ・ラインは停止された。
              ルイジアナ州のエクソン社バトンルージュ製油所周辺  (図はグーグルマップから引用)
< 事故の状況および影響 >
事故の発生
■ 1989年12月24日クリスマス・イブの朝、ルイジアナ州バトンルージュを中心に電力会社:エンタージー社(Entergy)の240KV送電網において広範囲の地域で停電が起った。この地域の中に、ミシシッピー川沿いにあるエクソン社の製油所・石油化学工場が含まれていた。この停電によって施設のシステムはすべて“フェール・セーフ”モードで作動していった。

■ このフェール・セーフ・モードは、プロセスの安全設計上、制御システムにおける流量、液位、圧力、温度などのプロセス変数について全開位置あるいは全閉位置の安全方向へ動くことになる。しかし、このフェール・セーフ・モードのバルブ作動が、最終的にバトンルージュ事故における異常連鎖の引き金になってしまった。

■ C3より軽い留分の製品用8インチ径高圧配管がサーマル・エキスパンション(熱膨張)によって破損し、ベーパー/ミスト状の炭化水素が毎秒1,500ポンド(680kg/s)の割合で流出した。流出がおよそ2分半続いた後、火が付いた。
 流出した炭化水素ベーパーは推定225,000ポンド(102トン)で、周囲1,000~1,500フィート(300~450m)で高さ(深さ)約80フィート(24m)の蒸気雲を形成していた。爆発の威力は、75マイル(120km)離れたニューオリンズでリヒター・スケール3.2を記録している。

■ 爆発は12月24日午後12時35分に起った。このとき、エクソン社のジェリー・クラフト消防チーフは、安全関係のメンテナンス作業について監督するため、貯蔵タンク地区にある2つの高い防油堤壁の間の低い場所にいた。この防油堤壁の間に立っていたことによって、クラフト氏たちは爆発に伴う衝撃波から免れることができた。衝撃波が頭上を通り過ぎていったのである。爆発が起ったとき、クラフト氏は空に向かって巨大なキノコ雲が立ち上るのを見た。高さは1,000フィート(300m)に達したという。

■ 最初の爆発の後、クラフト氏は設備の運転状態と被害状況を確認するため、施設内を進んでいった。爆風によって飛び散った破片に妨げられながら、クラフト氏は施設内の主なところを徒歩で見て回って、地上からの観察結果と被害状況の第一報を報告した。

■ パイプラックが損壊して17本の配管から火が噴出し、施設内の至るところで流出油による火災が広がっていた。 APIセパレーターが火災となり、プロセス装置でも火災が起こり、建物が火炎に包まれ、施設内は破片で行く先を塞がれる状態だった。貯蔵タンクでは、大小16基のタンクで火災が起っていた。クラフト氏は、さらに施設内を歩き回り、状況と取るべき対応について無線で緊急事態対応本部へ連絡し続けた。

■ 「このような重大な緊急事態が起これば、火災と戦うに当たって理想的な状態を簡単には作り得ない。われわれが最初に手をつけたは、消防活動に不可欠な人員と資機材の確保に関するロジスティクスである。それが構築できなければ、製油所・石油化学工場全体で起こっている複数の火災などの事態に戦術的に優位な状況は生まれない」とクラフト氏は語っている。

■ 火災になった16基の貯蔵タンクのうち14基は直径60フィート(18m)以下の小型タンクだった。あとの2基のタンクは直径134フィート(41m)で、内液はいずれも暖房用オイルで116,000バレル(18,400KL)入っていた。

■ 最初に対応本部から離れた場所にいることになったが、クラフト氏は、爆発と続いて起った火災の影響を受けにくい進入ルートや風上に当たる戦術活動位置についての情報を連絡した。「爆発によって、本来、攻撃に最適な場所が使えなくなっていた。消防車両用アクセス・トンネルが、近くのタンク破損部から漏れ出た油で深さ10フィート(3m)ほど浸かっていた」とクラフト氏は語っている。

■ 現場指揮所のクラフト氏たちは、人員と資機材を移動させる方法を探していた。“橋頭堡” (きょうとうほ)とする場所についてはすぐに4箇所を設定した。これらの場所は、その後14時間半に及ぶ戦いを維持するための人員と資機材を投入するのに役立った。4つの発災個所への攻撃を行うために、4つのチームが“橋頭堡”に編成された。 各チームの前には、どのように進展していくかわからない火災が敵対し、それぞれが立ち向かっていかなければならなかった。

■ 「同時に4つのチームが編成されたので、最初に私が最も憂慮したことであるが、まず第一に対応しなければならなかった仕事は構内に停まっていた多くの鉄道車両をどうするかであった。施設内には5つの鉄道引込み線があり、工業地区の工場からいろいろな製品を積んだ鉄道車両がいつでも構内にいた。そして、この中で最も懸念したのは赤いストライプの入った3両の“キャンディー・ストライパー”で、この車両にはシアン化水素が積み込まれていた。この貨車は、事故が起った時間には別な施設へ移動する予定だったのが、停まったままになってしまった」とクラフト氏は振り返って語った。 

■ 危険性の高いシアン化水素の貨車は、ほかの鉄道車両と簡単に識別できるよう、側面が白地に赤いストライプを入れて目立つ塗装を施すよう鉄道委員会によって決められていた。

■ 事故当時、消防隊長でハズマット隊のチーフだったハーシェル・スタフォード氏は鉄道ヤードの支配人に連絡をとり、構内に停まっている鉄道車両をすべて移動してもらいたいと依頼した。特殊エンジン車を使用して、最初の爆発から45分で鉄道車両は整然と移動していった。

■ 構内にあった151台の貨車には、ガソリン、塩化ビニル、LPG、その他の爆発性や燃焼性の液体などのケミカル類が積んであった。これらの貨車の近くには、地上流出油火災やパイプラックからの噴出火災が迫っており、貨車を移動させたことによって、ケミカル火災、さらなる流出火災、貨車のBLEVE(Boiling Liquid Expanding Vapour Explosion:沸騰液膨張蒸気爆発)の可能性を無くすことができた。

■ 電力、ガス供給、スチーム発生がすべて喪失した状態で、施設の従業員はプロセス装置の安全を確保しようと現場で必死に作業し続けた。広範囲な対応に努力が払われている一方、人命優先の責任を果たす方向に向かっていた。
 「この事故対応において成功に導いたのは、当日直面したような脅威に立ち向かった人たちが事に当たっての意欲と日頃に学んだ訓練の成果が大きい。すべての対応チームはエクソン社の消防士で構成されており、シフト管理者と消防チームの各隊長によって指揮がとられた」とクラフト氏は語っている。

被 害
■ 爆発によって2名の作業員が亡くなった。消防活動に伴う負傷者はいなかった。

■ 製油所・石油化学工場内の配管などが損壊した。貯蔵タンク地区では、16基のタンクが火災によって損傷した。
 (写真はKittnerstore.photoshelter.com から引用)
(写真はYoutube.comの動画から引用)
< 事故の原因 >
■ 貯蔵タンクの火災は、 8インチ径高圧配管がサーマル・エキスパンション(熱膨張)によって破損し、蒸気雲爆発が起ったための延焼である。蒸気雲爆発の発火源は特定できなかった。

< 対 応 >
■ 爆発があったのは午後12時35分で、そのあとの午後1時15分、クラフト・チーフはダン・ベイドン氏にウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社のドワイト・ウィリアムズ氏に連絡するよう依頼した。要請した内容は、現地で発生している大型タンク火災を消火するために必要な支援人員の派遣、泡薬剤の供給、予備の消火ポンプの手配だった。

■ ドワイト・ウィリアムズのチーム7名がその日の午後7時に到着した。彼らは、大型タンク火災2基との戦いを打ち破るための豊富な経験と洞察力を携えていた。ウィリアムズ氏によると、来る途中の50マイル(80km)離れたところで製油所から上がる炎が見えていたといい、過去に経験した中で最悪の火災のひとつだと語っていた。

■ ウィリアムズ氏は、自分たちが到着するまでの間、製油所の消防隊はいい仕事をしていたと評価した。消防隊は風上から泡放射を行い、火災の制圧に努め、ある火災現場ではノックダウンの直前までもっていっていた。タンクの火災消火まで至っていなかったが、地上火災のいくつか消していた。

■ エクソン社は、以前ウィリアムズ社から購入した放射能力2,000gpm(7,570L/min)の泡モニター1台を保有していた。その日の遅く、テキサス州ポートアーサーの化学会社ハンツマン社から別な放射能力2,000gpm(7,570L/min)の泡モニターが到着した。放射能力2,000gpm(7,570L/min)の泡モニターを使用するには、大口径のホースが必要だったが、1989年当時、実際の工業火災で実績のある大口径ホースはなく、泡モニターへの水供給の接続に工夫を凝らさなければならなかった。 

■ 緊急事態対応上、クラフト氏は消防チーフから対策本部へ移り、重大事故の対応マネジメントを行った。上空からの監視支援を受け、クラフト氏は事故対応の観察を続けた。
 クラフト氏は、ルイジアナ州警察のヘリコプターによる映像と詳細な地図情報を活用して、地上で活動する4つの消防チームへ対応策を指示した。火災まわりで作業するチームの動きを観察し、直面し続けている複数の火災への対応の優先度について連絡した。このようにして対応が全体として機能するように努めた。

■ 「我々がそのとき目の前にしているものを攻撃するには、当日、理想的な状況は生まれなかった。われわれ消防士は、地形の悪さ、消火ホース展張の難しさに加え、-12℃を下回る気温に対応しなければならなかった。カナダの消防士だって-10℃の天候の中での消防活動に慣れていないだろう。しかし、ルイジアナ州南部の地でそれ以上の厳しい環境に消防士は曝された」とクラフト氏は語った。
 一方、夜が更けてきて、気温が低下しつつあったので、地上火災から発する熱はプラス側に働いた面があった。

■ 現場の作業チーフを引き継いだのは、ハーシェル・スタフォード氏だった。スタフォード氏とウィリアムズ氏は、地上における消火戦術をいろいろ練って実行し続けた。各チームは自分たちに直面している様々なタイプの火災に対して、1-1/2インチ放水ノズル、 2-1/2インチホース、泡モニター、泡薬剤、ドライケミカルなどを使用して応戦し続けた。

■ 「この日にとった戦術は、最初の爆発によるダメージの影響を大きく受けていた。終日、我々を悩ませたのは消火水の供給だった。消火用水の主管が爆発によってひどい損傷を受けていた。消火栓が基礎から吹き飛ばされていたり、消火栓の真鍮部品が溶けているものも少なくなかった」とクラフト氏は思い出すように語った。

■ 消火水の主管が使えそうにないので、別な水源を見つけなければならなかった。この代替策としては、ケミカル処理した河川水タンク、プロセス装置のクーリング・タワー水、雨水排水系の貯水池の油層より下の水を消防車で汲み上げての給水などであった。河川水タンクの水を得るため、厳寒のなか、消防隊は氷結した12インチの閉止弁をバーニング・ボックスで温めねばならなかった。クーリング・タワーからの水は3,500フィート(1,000m)の距離を中継しなければならなかった。

■ 消防隊のチームは、2回、対応を中断しなければならなかった。一度は停電によって加熱炉のチューブが破裂して火災が発生したとき、二度目は化学工場側で大型ポンプが火災を起こしたときである。

■ 小型タンクの火災では、1,000gpm(3,785KL/分)の放水可能な高所消防車を持ち込み、火災タンクの前で前後進を繰り返し、消火活動にできるだけ良い位置を確保した。500~1,000gpm(1,890~3,785KL/分)の小型モニターを使用するためにできるだけ火に近づいた。これらの消防機材を使うため、多くのホースを展張しなければならなかった。

■ 地上火災への攻撃は、複雑さを含み難しい対応を迫られた。直径60フィート(18m)のタンク4基がひとつの区域で燃えている箇所があった。このタンク内液は潤滑油だったが、通常は安定した製品だが、高温で引火して驚くような熱を発していた。クラフト氏によると、タンクが透けて見えるほどで、熱い側板を通してレベルが分かったという。

■ 直径134フィート(41m)のタンクの火災は大きくないように思えるが、猛烈な熱と黒煙を放出していた。直径200フィート(60m)に相当する防油堤に囲まれており、消火活動も難航した。この大きな2基のタンク火災は、ウィリアムズ消防チームとスタフォードの消防隊で対応した。スタフォードの消防隊は火災の風上から作業を行った。スタフォードの消防隊は受け持ったタンクへの消火活動を始めており、10分後には、ウィリアムズ消防チームがもう一方のタンクへの消火活動を始める予定だった。
 ウィリアムズ消防チームの目の前には、200フィート(60m)相当の大きな地上火災が立ちはだかり、風下には150フィート(45m)の別な地上火災が広がっていた。眼前の地上火災は非常に熱く、消防車は扱えなくなるほど焼け、展張していたホースが燃えてしまった。ウィリアムズ消防チームがホースの引き直しを終える頃までに、スタフォードの消防隊が大部分の地上火災を消して、ウィリアムズ消防チームの作業エリアを確保した。

■ 直径134フィート(41m)の2基のタンク火災に対して、各タンクへ放射能力2,000gpm(7,570L/min)の泡モニター1台が配置された。防油堤エリアに対して1,000gpm(3,785 L/min)級ノズル2台を配置した。使用された泡消火薬剤は多糖類添加耐アルコール泡(AR-AFFF)で、3M社のライト・ウォータ(Light Water)3%だった。
 泡放射は12月25日午前3時30分に開始された。すでにタンク火災は13時間半を経過していた。水供給系の問題によって、消火水の圧力が必要とする6.9bar(100psi)に遠く及ばない4.7bar(68psi)しかなかった。このため、流量は約6,240 L/minしか出ず、タンクNo.1-4への泡放射量は4.5 L/㎡/min相当で行われた。しかし、約20分でノックダウンに達成し、全消火活動時間65分で消火することができた。 タンクNo.2-5への泡放射量は幾分多くでき、5.4 L/㎡/minだった。このタンクのノックダウンと消火活動時間は不詳であるが、消火に至らすことができた。

■ 消防隊は、夜を通して徐々に火災を制圧していった。消火活動に使用した泡薬剤は48,000ガロン(182KL)に及んだ。バトンルージュ製油所では、1970年代の後半に泡薬剤を多糖類添加耐アルコール泡(AR-AFFF) に切替えていたが、保有分は使い果たした状態だった。クラフト氏によると、泡薬剤は70,000ガロン(265KL)を要すると考え、泡薬剤の供給者であるウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社/3M社に手配を頼んでいたという。

■ 直径134フィート(41m)のタンク2基は、内部に約半分の暖房用オイルが残ったが、激しい熱のためタンクにサーマル・クラック(熱亀裂)が入っていた。

■ 全消防活動を通して、ケガのために時間をとられる消防士はいなかったし、小さなケガも無かった。

■ 異常事態から複数の貯蔵タンクが延焼するという大きな火災は、15時間の消防活動によって消火に至った。クリスマス・イブの夜を心配しながら床についた市民がクリスマスの日に見たのは、黒煙に覆われた空でなく、輝く太陽だった。
 エクソン社の製油所長から消防隊への感謝の意の所感が届いた。「今回の対応では、地域への影響をできる限り軽減されようと努められたことを知り、ありがたく思っています。バトンルージュに住む人たちが朝起きて、美しい太陽の輝くクリスマスの朝を迎え、空は煙から解放されていました。私たちの消防隊は非常事態時の大火災を克服できました。人々はミシシッピー川沿いに生じた脅威について心配しなくても済みました」

■ クラフト氏はつぎのように結論づけている。「燃えるものが多ければ多いほど、あるいは燃える時間が長ければ長いほど、この間に生じるトラブルが増えていくということは、消防士の経験上、よく分かっている。我々はこの事故に真っ向から勝負した。我々は多くの難問に直面したが、工夫と粘り強さと長年の訓練によって克服し、米国最悪の火災をその日にうちに消すことができた」

■ 大容量泡放射砲や大口径ホースの開発初期段階の時代に、バトンルージュで対応に当たった消防隊は実際の火災でうまく適用し、最悪の製油所火災を記録的な時間で制圧したといえる。

■ ウィリアムズ氏はクリスマスの日に家路へ出発したが、疲労のため製油所の正門を出る前に深い眠りについた。クラフト氏によると、クリスマスの午後7時頃に家へ着いたという。
 (写真はWilliamsfire.comから引用)
 (写真はWilliamsfire.comから引用)
 (写真はWilliamsfire.comから引用)
 (写真はYoutube.comの動画から引用)
(写真はYoutube.comの動画から引用)
補 足
■ 「ルイジアナ州」(Louisiana)は、米国南部のメキシコ湾に面しており、州都はバトンルージュ、最大の都市はニューオリンズである。人口は約457万人であるが、2005年のハリケーン・カトリーナなど何度も大型のハリケーンに襲われたため、移転する州民が多く、他の州に比べて人口が伸び悩む傾向にある。
  「バトンルージュ」 (Baton Rouge)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の州都であり、人口は約23万人で州内第二位の規模を誇る都市である。
                ルイジアナ州の位置   (図はグーグルマップから引用)
■ 今回の直径41mのタンク火災に使用された泡モニターの能力は7,570L/minで、本来、5.7 L/㎡/minに相当する。「タンク火災への備え」(クレイグ・シェリー氏)によれば、直径45m未満のタンクでは 6.7 L/㎡/minの泡放射量を必要とする。今回の事例では、水圧が低く、タンクNo.1-4への泡放射量が4.5 L/㎡/min、タンクNo.2-5への泡放射量が5.4 L/㎡/minだった。主力泡モニターほかに補助の泡モニターが使用されたか分からないが、消火可能条件とはいえず、この点、泡放射の操作方法が良かったと思われる。
 なお、日本の法令では、直径41mのタンク全面火災で必要な泡モニターの放射能力は10,000L/minであり、これは 7.6 L/㎡/minに相当する。

■  「ウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社」(Williams Fire & Hazard Control)は1980年に設立し、石油・化学工業、輸送業、軍事、自治体などにおける消防関係の資機材を設計・製造・販売する会社で、本部はテキサス州モーリスヴィルにある。ウィリアムズ社は、さらに、石油の陸上基地や海上基地などで起こった火災事故の消防対応の業務も行う会社である。
 ウィリアムズ社は、2010年8月に消防関係の会社であるケムガード社(Chemguard)の傘下に入ったが、2011年9月にセキュリティとファイア・プロテクション分野で世界的に事業展開している「タイコ社」(Tyco)がケムガード社と子会社のウィリアムズ社を買収し、その傘下に入った。
 ウィリアムズ社は、 米国テネコ火災(1983年)、カナダのコノコ火災(1996年)、米国ルイジアナ州のオリオン火災(2001年)などのタンク火災消火の実績を有している。当ブログにおいてウィリアムズ社関連の情報はつぎのとおりである。

■ ウィリアムズ社はウェブサイトを有しており、各種の情報を提供している。この中で「Code Red Archives」というサブサイトを設け、同社の経験した技術的な概要を情報として公開している。今回の資料はそのひとつである。

所 感
■ ルイジアナ州のエクソン社バトンルージュ製油所の火災事故はかなりひどい事故である。配管の損壊、油の流出、蒸気雲爆発、地上火災、堤内火災、複数タンク火災とあらゆる事象が生じた事故といえる。その中で、貯蔵タンク火災の消火活動の状況について語られた本情報は貴重といえる。

■ この事例で注目する点はつぎのとおりである。
  ● 現場の指揮官の果たす役割が極めて重要性である。今回の事例では、ウィリアムズ社のドワイト・ウィリアムズ氏のほかに、エクソン社のジェリー・クラフト氏とハーシェル・スタフォード氏が現場で発生するトラブルに対して的確な判断と対応を行っている。
 ● 大容量泡放射砲および大口径ホースの重要性が確認された。1989年当時、米国では、すでに容量の大きい7,570 L/min (2,000gpm)級泡モニターを活用できる状況にあったことがわかる。この事例のあと、大容量泡放射砲システムの開発が本格化したものと思われる。 
 ● 泡薬剤の補給が十分に行われている。この点、消火活動における兵站(へいたん)、すなわちロジスティクスの重要性が認識されている。
 ● 火災との戦いの中で、ヘリコプターを使用して発災状況を鳥瞰(ちょうかん)的に把握できたことが役立っている。これは、1985年に起った米国ハワイ州のペニンシュラ海軍燃料庫の火災事故でヘリコプターによる上空からの観測が有効だったことが報告され、今回の事例でその教訓が活かされたといわれている


備 考
 本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
  ・Williamsfire.com,  「Tale of Two Cities: Baton Rouge, 1989 & Buncefield, 2005」, Field  Report, Edited by Brent  Gaspard,   CODE RED ARCHIVES, Williams Fire & Hazard Control. Inc.
  ・Fireworld.com,  「BAD SANTA - Christmas 1989 Fire Hits Baton Rouge Refinery」, March,  2007
  ・Sp.se,  Tank Fires   Review of fire incidents 1951-2003,  SP Swedish National Test and Research  Institute,  2004



後 記: 今回は、ウィリアムズ社が公開しているCode Red Archivesの資料だけだと、大きな火災事故の割に情報に不足感があったので、 IFW(Industrial Fire World)の“Bad Santa”とSP Swedish National Test and Research  Instituteの“Tank Fires”の資料の中から関連情報を補完しました。これらの中で、爆発の要因になった高圧配管が原料の天然ガスラインなのかC3より軽質の製品ラインなのか混乱が見られましたが、本ブログの対象ではないので、あえて追及しませんでした。3つの資料を合わせると、直径41mのタンク火災の消火活動の状況がつかめるようになりました。使用された泡モニターの放射能力は2,000gpm(7,570L/min)で、今では大容量泡放射砲とはいえない大きさですが、当時としては最大の泡モニターです。日本で大容量泡放射砲システムが必要だと認識するのは、この1989年(平成元年)の「対岸の火事」から15年を経てからです。



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