今回は、いまから52年前の1972年3月30日(木)、ブラジルのリオデジャネイロ州にあるペトロブラス社のドゥケ・デ・カシアス製油所において液化石油ガス球形タンクが爆発し、91名の死傷者を出した事故を紹介します。
< 発災施設の概要
>
■ 発災があったのは、ブラジル(Brasil)リオデジャネイロ州(Rio de Janeiro)ドゥケ・デ・カシアス(Duque de Caxias)にあるペトロブラス社(Petrobrás) のドゥケ・デ・カシアス製油所(Refinaria Duque de
Caxias)である。製油所は1961年に開設され、1日あたり24,000KLの石油を生産する能力があった。
■ 事故があったのは、製油所内にある液化石油ガス(LPガス)用の球形タンクである。製油所内には、容量1,600トンで直径25mの球形タンクが4基あり、うち3基が被災した。液化石油ガスの総貯蔵能力は7,803トンである。
<事故の状況および影響>
事故の発生
■ 1972年3月30日(木)午前0時50分頃、ドゥケ・デ・カシアス製油所で液化石油ガス用の球形タンク1基が爆発を起こした。
■ 前日の29日(水)午後5時頃、球形タンクの1基でタンク底から水抜き中、タンクのドレンバルブが氷結して閉めることができず、液化石油ガスが漏洩し続けた。漏れの量は大きくなっていた。この液化石油ガスに何らかの引火源によって火がついた。
■ 製油所の自衛消防隊が出動し、周辺地区を含め、球形タンクを冷却しながら火災の進行を防ごうと奮闘した。作業の効果はなく、まわりの空気は刻一刻と上昇した。そして、午前0時50分頃、最初の球形タンク1基が爆発した。球形タンクの一部が2km離れたところに噴き飛んだ。タンクの破片は数km先まで飛び散った。
■ 製油所近隣にあるカンポス・エリセオス地区はパニックに陥った。何百人もの人々が爆発に怯えて家を出た。製油所の周辺では、夜は昼のように明るくなり、空が真っ赤に染まった。炎は300mの高さまで達し、遠くの地区の人も見ることができた。リオデジャネイロの北地区では爆発の揺れを感じることができ、カシアスの中心部では多くの家屋の窓などが壊れた。爆発の圧力は地震のように感じられた。製油所の近くでは、店舗の扉が歪んで壊れ、窓は破られ、木は根こそぎ倒れ、壁は崩れ落ちた。
■ 製油所の現場では、温度が100℃を超え、まさに戦場のような光景だった。住民は赤ん坊を抱え、寝間着のまま家を飛び出し、自転車、車、バイクで製油所からできるだけ遠くへ逃げた。モンガバに到着した列車が住民によって止められ、人々が車内に進入し、あっという間に満員になった。
■ 最初の爆発から数分後にカンピーニョ消防署の消防隊が製油所に到着したが、新たな爆発に見舞われる危険性があり、消防活動ができなかった。ただちに、消防隊は本部に援軍を要請した。最大の難関は高温で消防隊が爆発現場に近づけないことだった。その後すぐに援軍が到着し、メイヤーから5部隊、ラモスから2部隊、中央本部から7部隊がカンピーニョの5部隊に加わり、製油所の自衛消防隊の応援隊も到着した。消防隊は、炎に向かって消火泡を放射した。炎の近くにいる人には離れるようにいい、もし急に炎が大きくなったら地面に身を伏せるように呼びかけた。ほとんどの人は、炎のまぶしさで目が見えなくなり、大きな爆発音で耳が聞こえなくなり、激しい熱さで窒息しそうになりながら、現場から離れざるを得なかった。
■ さらに小規模な爆発的燃焼が続き、 2基目の爆発が午前1時30分頃、3基目の爆発が午前2時30分頃に発生した。
■ 午前2時30分の爆発はさらに危険が差し迫った事態になり、消防士と救急士はすべてを放棄して逃げなければならなかった。爆発するたびに炎が低く噴出し、距離20mほどの範囲にあるものをすべて焼き尽くした。この爆発時に多くの人命が奪われ、多くの人が負傷した。
■ 周辺地区のカルロス・シャガス病院とゲトゥリオ・バルガス病院から40台の救急車で医師と看護師を載せて援助のために出動してきた。
■ 3基目の爆発の後、陸軍の兵士150名が現場に到着し、ドゥケ・デ・カシアス市を“国のセキュリティ・エリア”とし、周辺一帯を包囲した。この地区にいた医師、看護師、消防士を退去させた。
■ 事故に伴い、38人が死亡し、53人が負傷した。
被 害
■ 球形タンク3基が損壊した。タンク内に貯蔵されていたLPガスが焼失した。
■ 死傷者91人が出た。内訳は38人が死亡し、53人が負傷した。
< 事故の原因
>
■ 事故の初期要因は、タンクの水抜き作業の運転ミスである。
液化石油ガス中の水はタンク静置中にタンク底に沈降する。この水を除去するため、タンク下部に設置しているドレンバルブを開けて水抜きを行い、液化石油ガスが出てきたらバルブを閉める。液化石油ガス中の水の量によって水抜き時間は異なる。事故当日、オペレーターはドレンバルブを開け、水抜きを開始したが、バルブを開けたまま、休憩所で軽食をとって水が抜けるのを待った。タンクでは水が抜けて、液化石油ガス中が出始めた。オペレーターは走って戻ったが、ドレンバルブはすでに氷結して閉めることができず、液化石油ガスが漏れ続けた。
■ 漏洩した液化石油ガスに何らかの引火源によって火災になった。
■ 爆発は液体の急激な気化による爆発現象で「BLEVE」(沸騰液膨張蒸気爆発)だった。
■ 安全弁は開いていたが、この安全弁は火災状態ではなく通常の動作状態向けに設計されており、壊滅的な規模の爆発を防ぐには不十分だった。
< 対 応
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■ 球形タンクの爆発による被害について調べたところ、1基の球形タンク関しては球体がバラバラになり、3つの大きな破片が別々な場所に飛んでいることがわかった。のちに、この爆発は液体の急激な気化による爆発現象で「BLEVE」(沸騰液膨張蒸気爆発)として分類された。 (図を参照)
■ この事例を受け、ペトロブラス社は球形タンクにつぎのような対応策をとった。
● 球形タンクの上部および下から1/3の高さに散水設備を設置
● インターロッキング付きの安全弁を2個設置
● ドレン弁に解凍用のスチームトレースを設置
● 球形タンクの下部に水注入設備を設置
● タンク下部に恒設のドレン配管を設置し、遠隔操作式でファイアセーフ型のバルブを2個取付け
■ 事故は液化石油ガス貯蔵エリアに限定されており、ほかの液体製品タンクやプロセス装置には影響がなかった。
■ この事故は6年前の1966年に起きた「フランス フェザンのLPGタンク爆発・火災事故(1966年1月)」( 2015年1月)と類似しているという指摘があった。
補 足
「ブラジル」(Brasil)は、正式にはブラジル連邦共和国で、南アメリカに位置する人口約2億1,340万人の連邦共和制国家である。州はブラジル連邦単位(Unidades Federativas do Brasil) から成り立っており、ある程度の自治権 (自治、自主規制、自己徴収) を備えた組織で、独自の政府と憲法を備えていて、これらが集まって連邦共和国を形成している。ブラジルには26の州があり、各州政府は行政府、立法府、司法府をもっている。
「リオデジャネイロ州」(Rio de Janeiro)は、ブラジル南東部の大西洋沿いに位置し、現在は人口約1,600万人の州である
「ドゥケ・デ・カシアス」(Duque de Caxias)は、リオデジャネイロ州の都市でグアナバラ湾に面しリオデジャネイロ都市圏を構成する都市で、現在、人口は約92万である。石油精製や石油化学工業などの重要な工業地域を有している。
■「ペトロブラス社」 (Petrobrás) は、1953年にアマゾンのウルクー油田開発のために設立され、現在は南半球最大の石油掘削会社で広く石油産業に携わっている。ブラジルのリオデジャネイロ市に本社を置き、慣例としてブラジル石油会社あるいはブラジル石油公社と表記されることのある半官半民企業である。
■「ドゥケ・デ・カシアス製油所」の貯蔵エリアには、総容量5,616,000バレルの石油タンク26基、1,292,000バレルを貯蔵できる中間生成物タンク37基、最終製品2,730,000バレル用の貯槽37基、および7,803トンの液化ガス用の貯蔵施設があった。当時、この貯蔵エリアは南米最大だった。
所 感
■ 今回の事故を読んで思い出したのは、プラントの液化石油ガス設備(タンクや配管)で水抜き(ドレンアウト)をする場合、バルブの氷結に注意するよう言われたことである。いまにして思えば、当時、ブラジルのドゥケ・デ・カシアス製油所の事故やフランスのフェザンの事故の教訓があったからだろう。
■ 液化石油ガスの球形タンク事故では壊滅的な破壊を伴うが、50年前の海外の話だけではない。日本でも記憶に新しい事故は「東日本大震災の液化石油ガスタンク事故(2011年)の原因」(2012年3月)である。この4年後には「中国 山東省の液化石油ガスタンク群で爆発・火災」(2015年7月)が起こっている。
備 考
本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
・Diariodorio.com, O Dia em que a REDUC explodiu, April
01, 2019
・Wikidata.pt-pt.nina.az, Explosão na Reduc em 1972, December
17, 2023
・Sindipetrocaxias.org.br, 30 de março de 1972 – A Explosão da Esfera
de GLP, March 30,
2020
・Revista Geográfica de América Central Número Especial EGAL, O MAIOR
ACIDENTE DA REFINARIA DUQUE DE CAXIAS (RJ) – BRASIL: UM ESTUDO
GEOGRÁRICO-HISTÓRICO, 2011
・Inspecaoequipto.blogspot.com, Caso 007: O Maior Acidente da REDUC
(1972), May 07,
2013
・Zonaderisco.blogspot.com, Explosão na Refinaria Duque de Caxias
(Reduc), December 11, 2014
・Portalc3.net, Memória: Explosão Refinaria Duque de Caxias, March 30,
2024
後 記: 50年も前の事故だと発災内容が曖昧なことです。大きな事故だったので、繰り返し報じられていますが、事故の経緯がはっきりしません。事故の発端である球形タンクの水抜き作業は、このブログでは29日の午後5時頃ということにしましたが、30日の未明で爆発の直前と報じているところもあります。前日の夕方から漏れ始め、爆発が午前0時50分であれば、6時間以上も漏れ(火災)が続いているのは長すぎると思うのですが、そのほかの状況をみていくと、30日の真夜中に水抜き作業を始めるのは不自然です。このほか、2回目と3回目の爆発が続きますが、どのタンクが爆発したのか判然としません。それで、 2回目、3回目というのは、2基目、3基目という解釈にしました。
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