(写真はPophistorydig.comから引用)
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< 発災施設の概要 >
■ 事故があったのは、米国インディアナ州(Indiana)のホワイティング(Whiting)にあるスタンダード・オイル社(Standard
Oil)の製油所である。製油所の敷地面積は1,660エーカー(670万㎡)だった。
■ 発災の発端は、製油所の流動床式のハイドロフォーマー(接触改質装置)である。ハイドロフォーマーは、触媒による接触分解プロセスとして知られ、高温・高圧下でナフサと水素を使用して高オクタン燃料を製造する装置である。ハイドロフォーマーは高さ260フィート(79m)で、25階のビルより高い。当該装置の生産能力は30,000ガロン/日(1,100KL/日)で、ホワイティング製油所の新しい装置として稼働し始めたばかりだった。ハイドロフォーマーの設備は、当時、石油精製装置の中で最大の塔槽を有し、最高水準の技術が結集されたものと信じられていた。
発災前のスタンダード・オイルのホワイティング製油所
(写真はPophistorydig.comから引用)
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< 事故の状況および影響 >
事故の発生
■ 1955年8月27日(土)午前6時15分頃、予兆もなく、流動床式のハイドロフォーマーで爆発が数回起った。これが“地獄の始まり”だった。最初の爆発でプロセス装置はバラバラになり、2インチ(5cm)厚で30フィート(9m)長の鋼材が吹き飛び、無数の小破片が四方へ乱れ飛んだ。近くに住んでいた女性は、「太陽が爆発し、世界の終わりが来たと思いました。恐ろしいような音が聞こえ、大きな赤い閃光が走りました」と語っている。最初に起った爆発力によって3マイル(4.8km)以内のほとんどの窓が割れた。キノコ雲が8,000フィート(2,400m)の高さにまで上がり、30マイル(48km)離れたシカゴでも見えた。
■ 爆発したハイドロフォーマーから熱い破片が製油所内と隣接する住宅地に雨のように降り注いだ。製油所構内では、噴き飛んだ金属片やコンクリート片の一部が石油貯蔵タンク群へ落下し、穴をあけた。このため、タンクに火がつき、中には爆発を誘発した。
“燃えている油による洪水”が製油所内の地上や構外のホワイティング通りと排水溝を流れているようだったと当時の新聞は報じている。排水溝から逆流するガスにタバコや家庭調理器の火で着火する危険性があると、あとから住民に警告がまわった。実際、この地区にある何本かの電柱が燃えた。
■ 製油所に隣接する住宅地では、飛んでいった物体が多くの家屋に損害を加え、住民に恐怖を与えた。実際、10フィート(3m)の鋼管が1軒の家の屋根を突き破り、部屋で寝ていた3歳の男の子に当たって男の子は死亡した。大きなものでは180トンの鉄の塊が飛んでいた。製油所から半径3マイル(4.8km)以内の会社事務所、住宅、ガレージ、自動車などに多大な被害が出た。
■ かろうじて家から逃げて避難所のホワイティング・コミュニティ・センターにたどり着いた二人の子どもを連れた夫婦は、その時の恐怖をつぎのように語っている。
「爆発でベッドから放り出されました。鉄のパイプが建物を突き破っていました。窓は部屋の内側に吹き飛び、天井のしっくいが剥がれ落ちていました。私たちは床を這い出し、子どもたちを探しました。子供のベッドはひっくり返っており、子どもはその下にいました。まわりは割れたガラスとしっくいで覆われていました。私たち四人はそこから急いで出て、車に乗り込みました。路地に沿って抜けようとしたところ、100トンはあろうと思われる金属の塊に行く手を阻まれました。塊は製油所から飛んできたものでした。私たちは引っ返して路地の反対側を進み、やっと避難所に着くことができました」
■ この爆発事故によって、スタンダード・オイル社の従業員1名が死亡し、40名以上が負傷して病院に搬送された。
■ 近隣地区では、600世帯約1,500人が避難した。治安維持のため、地元警察のほか武装した州兵が出動した。
■ 最初の爆発に続き、製油所の別なところから火災が起った。つぎの2日間、火災は広がり続けた。貯蔵タンク地区を行進するように爆発が起こり、油が流出し、火災が起った。火炎は、ときには、300~400フィート(90~120m)の高さにまで上がった。
■ 製油所構内にある貨物用鉄道は高温に曝されて、線路が歪んでしまった。貨物車の中には、熱によって溶けかかったものもあった。
■ 発災から二日目の時点では、火災は制圧下に入っていたと言われていた。しかし、この段階では、火炎が近くのシンクレア・オイル製油所に延焼してさらに被害の広がる恐れがあった。発災から時間が経過し、消防隊は火災を消すよりも封じ込める方が現実的だと感じていた。このため、製油所以外のところに火災が広がることがないよう、消防隊は火災場所の周辺に大きな土盛り堤を構築し始めた。
■ 結局、45エーカー(182,000㎡)の貯蔵タンク地区にあったタンクのうち70基が火災となった。損壊したタンクからは油が流出し、インディアナ港の運河に流れ込んだ。
■ 製油所は燃え続け、最後の火災が消えたのは9月4日(日)である。火災は8日間と5時間燃え続け、3つのプロセス装置が損壊し、貯蔵タンク70基が焼失した。火災跡には、曲がりくねった真っ黒な鋼材が横たわっていた。
(写真はPophistorydig.comから引用)
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(写真はChicagotribune.comから引用)
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(写真はChicagotribune.comから引用)
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被 害
■ 事故による死者は2名(従業員1名、市民1名)、負傷者は40名以上である。
なお、近隣地区の600世帯約1,500人が避難した。
■ 焼失面積は45エーカー(182,000㎡)で、3つのプロセス装置と70基の貯蔵タンクが損壊した。石油貯蔵タンク内の6,000万バレル(950万KL)の油が焼失したといわれている。
■ 爆発によって損壊した家屋は180棟にのぼった。このうち、140棟はスタンダード・オイル社が買い上げた。
■ 損害額は、当初、1,000万ドルと見積もられた。このうち、100万ドルが損害保険で支払われた。その後の損害に関する見積もりでは、3倍の3,000万ドル(2015年換算で8,700万~2億7,300万ドルの間)という額になった。
< 事故の原因 >
■ 貯蔵タンクが火災となったのは、ハイドロフォーマー(接触改質装置)
の爆発によって飛び火して延焼したものである。
< 対 応 >
■ 大火災と戦うため、スタンダード・オイル社から多くの従業員が動員されるとともに、ハモンド、東シカゴ、ゲイリー、カルメット・シティ、ダルトン、シカゴの各消防署の消防隊が出動し、合計で6,000人以上が参加した。
■ 消防隊は火災を消すよりも封じ込める方が現実的だと判断し、施設から流れ出て燃えている油を封じ込めるため、
3,000人で貯蔵タンク周辺に土盛り堤を構築した。
■ 一方、爆発を伴う恐れのある石油貯蔵タンクは、州兵によって40ミリ機関銃が打ち込まれ、タンクが爆発する前に内部の油が銃弾の穴から流れ出るようにした。
■ 1年後、スタンダード・オイル社は操業を再開し、被災した設備を作り直して再び100%の能力で運転を行っている。
■ 一方、事故が製油所で働く作業員と地域の人たちに与えた恐怖と不安感は大きかった。住民のひとりは、のちに、「爆発事故を契機にホワイティングの人口は10,000人から5,000人に減りました」と語っている。実際、事故後、アモコ/スタンダード社は製油所に隣接する土地を買い取ることになり、火災によって損害を受けた多くの住居や事務所が再び戻ることはなかった。
■ 2015年8月、事故から60回目の記念日を迎えた。ホワイティング/ロバーツデイル歴史協会は新しいドキュメンタリー映画「夜明けから1分後」を発表した。
1時間半の映画は貴重な経験を残すために制作されたものである。
遠くから火災を見ていたとき、突然、
爆発が起きて車の方に逃げる住民
(写真はPophistorydig.comから引用)
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爆発で飛んできた大きな金属片の横で燃え上がる大型タンク
(写真はPophistorydig.comから引用)
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(写真はChicagotribune.comから引用)
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燃える油の封じ込めのため、土盛り堤の構築作業
(写真はPophistorydig.comから引用)
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まだくすぶりが続く中、損壊したタンクを調査する人
(写真はPophistorydig.comから引用)
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補 足
■ 「インディアナ州(Indiana)は、米国中西部に位置し、五大湖地域にある人口約650万人の州である。
「ホワイティング」(Whiting)はインディアナ州北西部に位置するレイク郡にあり、ミシガン湖に接する人口約5,000人の町である。
インディアナ州の位置
(図はNizm.co.jpから引用)
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■ 「スタンダード・オイル社」(Standard
Oil)は、1870年にジョン・D・ロックフェラーによって設立された石油会社である。1878年には米国の石油精製能力の90%を保持するまでに至り、独占を制限する動きから会社を34に分割した。スタンダード・オイル社はその後エクソン・モービル、アモコ、シェブロンなどに引き継がれることになる。
インディアナ州ホワイティングにあった製油所はスタンダード・オイル・オブ・インディアナとなり、その後アモコに改名された。ホワイティングの製油所は、現在、「ホワイティング製油所」(Whiting
Refinery)と称し、42万バレル/日の精製能力でBPによって経営されている。
現在のホワイティング製油所 (写真はGoogleMapから引用)
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所 感
■ 最悪で大規模な石油施設の事故である。最近の大きな貯蔵タンク事例では、2005年の英国バンスフィールド事故の被災タンクが23基、2009年のプエルトリコ事故の被災タンクが21基、インドのジャイプール事故の被災タンクが11基である。これに比べ、タンク規模やタンク間距離などの違いがあるにしても、ホワイティング事故の被災タンクは70基(67基と報じられていることもある)であり、いかに大災害だったか分かる。
■ これだけの複数タンク火災が起これば、消火活動は困難である。消火戦略としては、消極的戦略として延焼防止の土盛り堤構築を行い、燃え尽きさせようというのは妥当な判断だっただろう。興味深いのは、機関銃でタンク側板に穴を開けて爆発する前に油を抜く判断を行ったことである。今から考えれば、かなり荒っぽい方法ではある。しかし、当時の発災現場は大混乱していたと思われるが、消火戦略上の「敵」を明確にして対応しようとしたことはうかがえる。
備 考
本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
・Pophistorydig.com
, “Inferno at Whiting” Standard Oil: 1955,
August 27, 2015
・Chicagotribune.com ,
1955 Standard Oil refinery blast sounded like ‘end of the world‘ , August
27, 2015
後 記: さすがに記録好きの米国だと感じる資料です。しかし、日本にも、この事例に関する記述が残っていました。「渋沢社史データベース」の「日本石油㈱ 日本石油史:創立70周年記念」の中で、昭和30年(1955年)8月に「アメリカ、インディアナ・スタンダード石油ホワイティング製油所の流動式ハイドロフォーマー大爆発、損害1,000万ドル」と記載されています。このあたり、日本石油がスタンダード・オイル社系の会社だったことが分ります。日本石油はJXエネルギーとなり、さらに、この4月から東燃ゼネラルと合併し、JXTGエネルギーとなりました。日本石油は情報公開に積極的な会社で、昭和35年に「石油精製技術便覧」を編纂し、現在ではインターネットで内容を見ることができるようにしています。少し心配なのは、会社が寡占状況になると、情報公開に積極的でなくなります。今年の1月に起きた東燃ゼネラル和歌山工場の事故原因について報告書が公開されなくなるのではないかと懸念しています。老婆心であればよいのですがね。