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2014年2月25日火曜日

テキサス州マグペトコ社タンク火災のボイルオーバー(1974年)

 今回は、1974年1月11日、テキサス州ポート・ネチェズにあるマグペテコ社のタンク火災のボイルオーバー事故について紹介します。この火災には、後にウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社を設立したドワイト・ウィリアムズ氏が消火活動に参加し、ボイルオーバーに巻きこまれた経験をし、消火方法の考え方を変えるきっかけになっています。
(写真はIndustrial Fire Worldから引用)
<事故の状況 >
■ 1974年1月11日、レス・ウィリアムズとドワイト・ウィリアムズの親子は、テキサス州ポート・ネチェズにあるマグペテコ社のタンク火災の消火活動に参加した。彼らにとって初めてのタンク大火災であり、親子はチームの一員として力を合わせて対応した。この火災は歴史に残るものだったが、消防隊にとって苦い結果だった。

■ ドワイト・ウィリアムズ氏に過去に対応した中で最悪の火災は何かと質問すると、彼はひとこと“マグペテコ”と答える。マグペテコ火災では、燃えている原油が大量に貯蔵タンクから噴き出し、大釜から現れた悪魔のように消防士たちを追い立てた。

■ のちにウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社を設立したウィリアムズ氏は、“まったく信じられなかった”ことについて語り始めました。「私は噴き出すタンクの堤内にいた。油がどんどん湧き上がっていた。そのとき、そいつが落ちてくると感じ、私は駆け出した」と語った。

■ 何でも真っ黒にし、火傷を負わせ、焼き尽くすような過熱した潮の流れにすべてが飲み込まれていた。しかし、今は、マグペテコの略称で知られたマグノリア・ペトロリアム・カンパニーで起こった火災はほとんど忘れ去られている。1970年代半ばにテキサス州ポート・ネチェズの製油所や緊急対応部隊で働いていた人のほかは、マグペテコと聞いても、知らないと肩をすぼめるだけである。

■ マグペテコで突然、大混乱に陥った現象(専門用語で“ボイルオーバー”と知られている)は、当時、ボーモント消防署の副署長だったピート・シェルトン氏にとっても、それまで24年間の消防士生活の中でまったく初めて経験だった。シェルトン氏は、「たびたび起こるものじゃないが、起こったときのことを考えておくべきです」と語った。
原油タンク火災の断面図を示す。左:ヒート・ウェーブ(黒い部分)が形成して下降。中央:ヒート・ウェーブが層状の水に当たり、スロップオーバーを発生。右:ヒート・ウェーブが底部の水に到達し、ボイルオーバーを発生。
■  1901年のスピンドルトップ石油噴出で有名なテキサス州南東部のボーモント、ポートアーサー、オレンジのゴールデン・トライアングル地域は、1974111日の夜明け前、雷を伴う嵐に襲われていた。午前3時過ぎ、ウィリアムズ氏の故郷であるポート・ネチェズにある49基のタンクを有する石油基地において、1基のタンクに雷が落ち、火災となった。ポート・ネチェズはボーモントから南東に約12マイル(32km)離れたところにある。火災を起こしたタンクには約20,000バレル(3,100KL)の原油が入っていた。

■ 午前9時には、隣接していたタンクに延焼していた。このタンクには70,000バレル(11,000KL)の原油が入っていた。ポート・ネチェズ消防署のジム・ハリントン署長は得られる支援をすべて欲しいと思っていた。ハリントン署長は、「我々は、昼食をとっていた北から強い風を受けることになった。このため、風に向かって作業しなければならなかった」と語った。
 
■ 父親のレス・ウィリアムズ氏は、当時、ポート・ネチェズで最も大きい化学会社であるジェファーソン・ケミカル社(現在のハンツマン社)で作業安全主任(セーフティ・ディレクター)として従事していた。可燃性液体の火災消火に関して長く研究しており、レス氏はすでにファイアソーブという商標の消火泡剤の特許を持っていた。
 マグペテコ火災は、ウィリアムズ親子が一緒に活動した最初の大火災となった。彼らが成功した多くの消火活動の最初の火災だったと言われることもあるが、それは真実ではない。
■ 激しい雨によってタンク基地の地面はどろどろのぬかるみになっていたと、ドワイト・ウィリアムズ氏は話している。消防車がぬかるみにはまり込まないよう、道路には貝殻材が急いで撒かれた。消火用水が必要だったが、マグペテコ社の構内には消火栓がゼロだった。シェルトン副署長によると、火災点から約1マイル(1,600m)離れたネチェズ川の原水を持ってこなければならなかったという。後年、レス・ウィリアムズとドワイト・ウィリアムズが消火活動のために開発した泡ノズルや大容量移送ポンプへ供給する水を十分に確保しておくという考え方は、当時の産業界では希薄だった。

■ ボーモントの消防隊はタンク外側の冷却ラインを保持しようと努めていたと、シェルトン副署長は語った。火点にできるだけ近づくため、泡放射トレーラーは火災タンク周りの防油堤内に配置されていた。シェルトン副署長は、「堤内には誰もとどまっていなかったが、我々は泡放射トレーラーを通して水を入れ続けていた。結局、これがボイルオーバーの起こる要因になったのだと思う」と語った。

■ ウィリアムズ親子はフォーム・タワーを立てるのに忙しかった。今日では、タンク側壁越えで燃焼油面に泡放射できるよう設計されたブーム付き消防車は一般的に見られるが、1974年当時は“フォーム・タワー”という可搬式で組立型の設備を、電柱のように伸ばして立てていた。
 ドワイト・ウィリアムズ氏は、「これで500~700ガロン/分(1,900~2,600リットル/分)の範囲で放射できた」と語った。 ドワイト・ウィリアムズ氏によると、昼頃になって父親のレス・ウィリアムズは制圧する状況になかなかならないことを懸念し始めていたという。レス・ウィリアムズ氏は、ジェファーソン・ケミカル社のジム・フリッツ氏とドワイト氏に燃えているタンクの堤内にノズルを配置し直し、操作するように指示した。

■ ドワイト氏は、「親父よ、モニターには3本のラインがつながっているんだぜ。誰か支援してくれるのかと言った」と語った。 ノー!とレス・ウィリアムズ氏は言った。レス・ウィリアムズ氏はドワイト氏とフリッツ氏に、やっている間、気をつけてやれ、そして終わったらすぐに戻れと指示した。話し合うまでもなく、ふたりは言う通りに実施した。
 彼らが任務を終えてきた途端に、誰かが別な雑事でふたりを使おうとした。レス・ウィリアムズ氏の指示に基づき、ふたりは何も言わず、用事を済ますためにその場を去った。

■ レス・ウィリアムズ氏が懸念したのは、ボイルオーバーとして知られる現象である。この現象に関する理屈はそれほど難しいものではない。原油には、量の差があるにしても、水や塩水を含んでいる。油と水は混じり合うことはなく、原油が一旦、貯蔵タンクの中に保管されたら、水は底部に静置し始める。火災が原油タンクの全面に広がった場合、火の下の原油は約450°F(232℃)に加熱される。

■ ゆっくりと、ヒート・ウェーブは原油の中を下ってゆき、その下降の速度は約3フィート/h(90cm/h)である。ヒート・ウェーブが底部に達すると、待っていた水の層は1:1,700の爆発的な膨張率で水蒸気に変わる。この膨張によって、熱く燃えた原油が突然、猛烈に噴出し、あっという間にタンク直径の10倍のエリアを巻き込む。

■ 一旦、タンクが噴き上がったら、カウントダウンの始まりである。レス・ウィリアムズ氏は、カウントダウンの開始時刻を約4分間ミスした。ドワイト氏とフリッツ氏は戻ろうとして、防油堤内を横切って歩いていた。そのとき、地面がゴロゴロと地鳴りし始めた。ドワイト氏は肩越しにちらっと見返すと、そこにはタンクから噴き出す真っ黒い原油が見えた。「ジムはまっしぐらに走ったし、私も懸命に走った」とウィリアムズ氏は語った。
 文字通りかかとに燃えた熱い原油を感じながら、ドワイト氏は防油堤内から抜け出し、道路の向こう側のレス・ウィリアムズ氏がいたところに戻った。ボーモント消防署のピート・シェルトン副署長も逃げていた。
 「そこには居られない状況で、とにかく急いだ。我々はメイン道路を約500ヤード(450m)退却しなければならなかった」と彼は言った。その間、放棄された泡トレーラーと消防ホースは燃えてしまった。

■ ジェファーソン・ケミカル社の消防車には、車両トップに500ガロン/分(1,900リットル/分)のモニターを2台設置していた。ドワイト氏は2台をうまく使った。1台は原油火災への直接対応として、もう1台は上へ向け、激しい輻射熱から彼ら親子を防護するためである。「呼吸をするのにも、消火服の中に顔を隠さなければならなかった」と彼は語っている。
 2台のモニターは機能を発揮し、向かってくる火の勢いを分け、車両の両側にやりすごさせた。テキサコ製油所から運んできた小型トラックは運がなかった。発災現場近くに駐車していたため、火に曝されてしまった。

■ 火災は拡大し、4基以上の貯蔵タンクに引火し、ウィリアムズ氏がいた近くのナフサタンクも火災となった。タンク屋根が噴き飛び、あたかも巨大なフリスビーが空へ飛び立つようだった。トラックに救いを求め、ウィリアムズ親子は前輪の下にもぐった。「“神よ、トラックの上にタンクの屋根を落とさないでくれ”と祈ったのを思い出すね。目を開けたとき、タンク基地で知った若者たちもトラックの下に隠れていたよ」とドワイト氏は語った。

■ しかし、ジム・フリッツ氏の消息はわからなかった。レス・ウィリアムズ氏が火災のために連れてきたこの仲間が火の中で生きていたということを知ったのは、数時間後だった。実際、彼はけがも無く、逃げていた。脱出ルートを遮るように水路があったが、ジムは即座に水路を選んだ。泳ぐことができなかったのもかかわらず、フリッツ氏は水路を渡り切り、助かった。後年、レス・ウィリアムズ氏がジェファーソン社を退社した後、ジム・フリッツ氏は作業安全主任を引き継いだ。

■ 驚いたことに、この火災事故で死者はいなかった。ドワイト氏によると、唯一負傷したのは、友人のクリントン・スミス氏だけだったという。「最初、彼を見たとき、火傷を負ったと思った。彼が運ばれるとき、全身油まみれだったからね。でも、実際は走っているとき、筋を違えて転倒したということだった」とドワイト氏は語った。

■ 消防隊としての心配は、タンク基地の火災が隣接するユニオン製油所(現サノコ)に拡大することだったとシェルトン副署長は語っている。バックホウを使って土手を構築し、火災を燃えている6基のタンクに限定しようと努めた。

■ 火災となったタンクでは、少なくとも2回のボイルオーバーが発生した。ポート・ネチェズ消防署ハリントン署長の推定では、当日、同署の消防隊とその他の対応部隊が失ったホースは口径2-1/2インチおよび3インチのもので36,000フィート(11,000m)に及んだという。これだけのものをつぎ込んだにも関わらず、マグペトコ火災は、午後8時までにタンクに在庫されていた燃料を使い果たし、火災事故の歴史に残った。

■ 2年後、シェルトン副署長はボーモント消防署の署長になった。シェルトン署長は、マグペテコ火災で起こったことをもとに、産業界の消火活動に関して出されている文献の研究に多くの時間を費やした。ボーモント消防署の消防士たちも自分たちで実験をやり始めた。「55ガロン缶(200リットル缶)を使って、可燃性液上部のベーパー空間でのBLEVE(Boiling Liquid Expanding Vapor Explosion;沸騰液膨張蒸気爆発)や火炎の影響などの実験をしたもんだよ。我々が学んだのはわずかだし、エキスパートとはいえないが、何が起こって、何を学んだかということは君たちに話せるよ」とシェルトン氏は語っている。

■ サクセス・ストーリーとしての“マグペテコ”は、タイタニックとベータマックスの間にランクされている。火災は鎮火できず、燃えて何も残らず滅んでしまった。しかし、貴重な学習経験として、マグペテコは計り知れないものを残した。レス・ウィリアムズとドワイト・ウィリアムズ親子にとって、産業界の消火活動について新しいスケールで考えるベースとなった。1980年、これらの知見をもとにドワイト・ウィリアムズは新しい会社を興した。もし、マグペテコの灰の中から飛び立つフェニックスがいたとすれば、それはウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社だったろう。

補 足                  
■ 「ポートネチェズ」は、テキサス州ジェファーソン郡にあり、現在の人口は約13,000人の町で、近郊のボーモントやポ-トアーサーの都市圏になる。

■ 「マグペテコ社」(MAGPETCO)は、正式にはマグノリア・ペトロリアム・カンパニー(Magnolia Petroleum Company)で、20世紀初頭の1911年に設立された石油会社である。1925年にニューヨーク・スタンダード・オイル社(Socony)の傘下になり、その後、1959年Soconyのモービル(Mobil)部門と合併された。その後の経緯はよくわからないが、現在は、モービル・オイル・ターミナルとなっている。
 操業時のマグノリア・ペトロリアム・カンパニーの工場 (写真はTxgenweb.orgから引用)
現在のテキサス州ポート・ネチェズにある石油ターミナル (中央部にタンク跡地も見える)
(写真はグーグルマップより引用)
■ 「サクセス・ストーリー」とは成功談あるいは成功話であるが、この記事では「“マグペテコ”はタイタニックとベータマックスの間にランク」と書かれており、成功談の下位を表している。ベータマックスはソニーが開発した家庭用ビデオの規格で、 VHS方式のビデオと激しい技術競争が行われ、世界の記録技術の進歩に大きく貢献したと言われるが、普及競争には負けた。

■ 当ブログでは、つぎのような資料に「ボイルオーバー」の情報を掲載している。

所 感
■ 今回はウィリアムズ・ファイア&ハザード・コントロール社を設立したドワイト・ウィリアムズ氏が、同社を興すきっかけとなり、同氏自身がボイルオーバーの中に巻き込まれたマグペテコ火災事故の経験談をまとめたものとして興味深い情報である。ボイルオーバーという用語や現象は頭の中で理解し、懸念しながらも、開始時刻を約4分間ミスったとあるように、初めての経験では判断を誤りやすいと思われる。しかし、米国では、このような事例をもとにボイルオーバーの危険性について理解し、疑似体験していったものと思う。

■ ボイルオーバーが起こったタンク仕様はわからないが、液量(3,700KLおよび11,000KL)や撤退距離(450m)から推測すると、直径25~45mで、容量5,000~15,000KLクラスと思われる。現在、日本にある原油タンク規模からみれば、比較的小さい。ボイルオーバー発生事故として負傷者が1名だったのは、タンク規模が大きくなかったためであろう。

■ ボイルオーバーに関するデータとして参考になるのは、つぎのとおりである。
   ●ヒートウェーブの下降速度は約90cm/hとみている。
   ●ボイルオーバーの影響範囲はタンク直径の10倍のエリアとみている。
 これらは確証されたものでなく、経験値からきているが、米国では標準的に考えられているデータである。

備 考
 本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
  ・FireWorld.com,  Magpetco、By Anton Riecher (Industrial Fire World Editor), Vol26 Winter, 2011



後 記: 先日、今回の資料をまとめていた時期でしたが、秋吉台の山焼きに行ってきました。山口県秋吉台青少年自然の家が主催して小・中学生の親子を対象にした山焼き体験なのですが、一般の人も募集していたので、申し込みをしたら抽選に当たりました。最初は枯れ草に夜露が降りて濡れていて、なかなか火が着きません。時間が経って乾いてくると、すぐに火が着きます。というより、火道(防火帯)に入る火を消す必要があるのですが、火消し用の葉っぱ付き生木で叩いてもなかなか消えず、意外に消す方が大変でした。また、炎が高く上がると、顔が熱く、その場所にとどまっておられません。丘の下から火を着けますが、燃えていく速度は結構速い。以前、このブログでプロの消防士が亡くなった豪州の山火事を取り上げましたが、ほんの少しだけ山火事の怖さを感じることができました。しかし、カルスト台地に火の帯が進んでいき、黒い焼け跡に白い石灰岩が点々と見える風景は美しく、普段ではできない貴重な面白い経験でした。


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