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2021年8月26日木曜日

1964年新潟地震における貯蔵タンクのボイルオーバー(泡消火剤の搬送)

 今回は、1964年の新潟地震における石油タンク火災に関して、最近インターネット情報の「乗り物ニュース」に泡消火剤のロジスティクス(兵站)活動について投稿されていました。この内容を既ブログ「1964年新潟地震における貯蔵タンクのボイルオーバー事例」(20145月)の消防活動の追録としてまとめましたので、紹介します。

要 旨

■  日本はこれまで多くの地震に遭ってきた。地震が起こると、油槽所、製油所、石油化学などの工場もまた被害を受けてきた。この論文では、日本において地震によって被害を受けた石油タンクの事故の歴史をまとめるとともに、1964年新潟地震の被災状況についてまとめた。

「日本における石油コンビナートの災害の歴史」については、既ブログ1964年新潟地震における貯蔵タンクのボイルオーバー事例」20145月)を参照。

■ 19646月に新潟地方で起こった地震は石油コンビナート地区に大きな被害を与えた。約150基の油タンクが火災となり、他に90基ほどのタンクに被害が出た。原油や燃料油を保有していたタンクでは、ボイルオーバーが数回起こっている。

1964年新潟地震

■ 表2に1964年新潟地震の概要を示す。新潟市は東京から北250kmに位置し、日本海に面しており、石油コンビナートがある。多くの建物や家屋が被害を受けたが、火災は工業地帯近くの家屋に限定された。石油コンビナートを含む新潟市域は津波に襲われた。石油コンビナートを含む市街地の大部分に地震による液状化現象が発生した。おそらく液状化によると思われる橋の損壊が起こった。

石油コンビナートの被害

■ 新潟の石油コンビナートは大きく、その中には製油所と数百基の石油タンクがあった。火災の多くはシェルグループの昭和石油の製油所において起こった。(図1、2、3を参照) 図4は、石油タンクの大半が火災を起こした石油コンビナート地区をA、B、C、D、Eの5つに分けてみたものである。


■ エリアAには、大型の原油貯蔵タンクが5基(表3を参照)あったが、No.1103タンクから出火したのち、全タンクに延焼した。 No.1103タンクでは、地震による油の揺動で油が側板を越えて溢流し、屋根とタンク側板が衝突したことによって火災が起こったものとみられる。

■ エリアBでは、津波の影響を受け、ガソリン、灯油などの油が海に流出した。2番目の火災は、昭和石油と三菱金属の境界付近で起こった。火災の着火源は、保管されていた金属(おそらく鉄粉)と海水の化学反応による発熱と思われる。エリアBには揮発性の油が漏洩していたため、火災はすぐに広がっていった。図4の矢印は火災の広がりの方向を示す。

■ エリアAには大型の原油タンクが5基あり、エリアCには灯油と原油タンクがあり、エリアDには重油タンクがあった。エリアEには、原油をはじめ、いろいろな油種を貯蔵していたタンクが数多くあった。

■ 新潟市の西地区には日本石油の製油所があり、大量の油が漏洩していたが、火災は発生しなかった。

■ 最初にNo.1103タンクで発生した火災は、短時間でエリアAの全タンクに広がった。61823時(地震発生から約58時間経過)、 No.1103タンクにおいてボイルオーバーが起こった。ボイルオーバーは他のタンクでも起こったが、発生回数ははっきりしていない。しかし、ボイルオーバーが起こったことによって、エリアAの火災を消火することは極めて困難になり、火災は628日まで続いた。

■ 三菱金属との境界付近で発生した2番目の火災は、エリアCの西および南の方向へ広がり、さらにエリアDとエリアEへと拡大していった。エリアDには10基のタンク(ガソリン、灯油、軽油)があったが、幸いなことに消防隊の活動によって延焼を免れた。

■ ボイルオーバーは、エリアBの重油タンクで発生し、さらにエリアCとエリアDにあった原油タンクでも起こった。ボイルオーバーの正確な発生回数は明確でないが、おそらく少なくとも45回あったとみられる。

事故の時系列

■ 津波によって新潟港は被害を受けた。地震によって液状化が起こり、揚圧力や噴砂の現象が生じ、油タンクや施設にダメージを与えた。石油コンビナートでは4か所で火災が起こっていた。

火災の始まり

■ 4か所の火災の概況を以下に示す。

昭和石油の製油所

■ 火災は地震直後に原油タンク地区で発生した。地震による油の揺動によって原油が飛散し、火災に至った。その後、火災はエリアA内のタンクに防油堤を越えて広がった。合計5基のタンクが火災となり、ボイルオーバーは2基あるいは3基のタンクで起きたとみられる。

昭和石油と三菱金属の境界付近

■ 地震発生後、約5時間経過して2番目の火災が発生した。この地区の製油所側では、深さ約0.5mの海水に浸かっていたが、損壊した油タンクや配管から漏れた揮発性の油の層が水に浮いていた。 このため、火災は水上を容易に広がっていった。結局、計138基のタンクが火災あるいは損傷を受けた。

ナルマス・オイル

■ 蒸留装置の製品を貯蔵する容量100KLの燃料タンクが地震によって損傷した。漏れた油に引火し、火災は水の上を走って建物へと広がった。火災は617日午前4時に鎮火した。

ニットー・ファイバ

■ 埋設のパイプラインから原油が漏れ出し、引火した。火は水の上を伝わって広がり、617日午前5時に鎮火するまで火災が続いた。

消防活動

■ 火災時における主な出来事と消防活動の概要を表4に示す。発災初期において地元消防署は市街地の災害対応に集中した。石油会社の消防隊は617日の早朝から活動を始めた。しかし、616日、17日の消防活動は不十分なものだった。その後、東京消防庁と他市の消防署の派遣部隊が支援に駆けつけた。この消防活動によってエリアDにあった製品油タンクの延焼防止に成功した。

=泡消火剤のロジスティクス(兵站)活動=

■ 油火災には専用の泡消火剤と化学消防車が必要不可欠であるが、当時の新潟市消防局に化学消防車は1台もなく、企業所有のものが3台だけだった。消火剤の備蓄もわずかだった。これを知った東京消防庁は、616日夕方、化学消防車5台と消防隊員36名を応援として出動させ、消火剤も緊急輸送することを決めた。消火剤は東京と埼玉のメーカーで直接トラックに載せられ、パトカーの先導付きで新潟へ向かった。とはいえ、当時はまだ関越自動車道などなく、一般道で約11時間以上もかかる大変な行程だった。

■ 応援隊が新潟に向かう間にも、火災がすさまじい勢いで広がっているとの情報が次々と入った。そこで東京消防庁では、航空機による消火剤の空輸を防衛庁(当時)に打診した。防衛庁は航空自衛隊の出動を決定する。在日米軍からも協力の申し出があったので、日米共同での空輸作戦を行うこととなった。地震発生の翌日617日早朝、東京都下の在日米軍立川基地(現在の陸上自衛隊立川駐屯地)に古いプロペラ輸送機4機が集結する。輸送機は名前をカーチスC-46“天馬といい、第2次世界大戦中に米国で大量生産され、戦後に航空自衛隊へ供与されたもので、製造から20年過ぎた古いものだった。在日米軍からはロッキードC-130輸送機1機が米軍提供の消火剤を積んで参加した。  

■ 集まったC-46輸送機4機とC-130輸送機1機の計5機は、消火剤入りポリタンクと専用の噴射ノズルを積んで立川基地を離陸した。新潟空港は施設が破損して離着陸不能であったため、あらかじめ消火剤にはパラシュートがくくり付けられており、それを空港上空で地上へ落とす物量投下を実施した。こうして新潟に届けられた消火剤は火災現場に運ばれ、消火活動に使われた。  

■ 618日午前030分、10時間以上かけて新潟市に到着した東京消防庁は、体制を整え火災への反撃が午前5時に開始された。しかし、618日に最初のボイルオーバーの発生し、火災との戦いをくり広げる消防隊を支援するため、消火剤の空輸は続行された。618日以降、輸送機の出発地は消火剤メーカーに近い埼玉県の航空自衛隊入間基地に移された。 

■ 618日から19日にかけての深夜には、航空自衛隊のC-46輸送機7機と米軍のC-130輸送機3機による夜間空中投下が敢行された。投下目標は、新潟空港の滑走路上である。そこには夜間ということで目印代わりに炎が焚かれたドラム缶が並べられていた。ちなみに、C-46輸送機にはレーダーなどなく、舵も重かったといわれているため、夜間低空飛行は非常に困難だったと想像される。

■ 空輸作戦は619日午後まで続けられ、延べC-46輸送機×22機、C-130輸送機×5機により、約87,730リットル(87.73KL)の消火剤の空中投下を行った。

タンク火災およびボイルオーバー

■ 異なるタンクでボイルオーバーが何回か起こったということは、いろいろな報告の中で言及されているが、正確な情報は明らかでない。(表4を参照) 火災発生から約58時間経過後、No.1103タンクでボイルオーバーが起こった。ボイルオーバーの発生までの時間が長かったのは、浮き屋根が浮力機能を有してリムシール火災の様相が長く続き、油への熱移動が小さく、油の燃焼速度やヒートウェーブ下降速度が遅かったためである。ヒートウェーブ下降速度は0.25m/hと推算している。 No.1103タンクでは、ボイルオーバーが2回以上発生した。

■ エリアC、D、Eには、エリアAと同様、ボイルオーバーを起こす恐れのある原油や燃料油のタンクがあった。事実、これらのタンクのいくつかはボイルオーバーが起こっているが、正確な発生時間や回数は分かっていない。エリアEにあった小型タンクで3日後にボイルオーバーが起こっている。ボイルオーバーが遅く起きたのは、前述の理由と同じだと思われる。何度もボイルオーバーが発生するような状況にあり、消防活動は困難を極めてが、消防隊には大きなケガをする消防士が出なかった。このような厳しい条件のもとで、消防隊は最善を尽くした活動を行なった。

教 訓

■ 新潟地震当時の日本にも、危険物の取扱いおよび貯蔵に関する法令があったが、この地震を契機に改正された。火災からの教訓と法令の改正内容はつぎのとおりである。

1) 防油堤が地震で簡単に壊れたので、防油堤の強度が災害を教訓にして改正された。

2) 油タンクの構造に関する法令が災害を教訓に改正された。

3) 火災が民間の家屋にまで達したので、石油施設のレイアウトに関する法令が見直された。

4) エアフォーム・チャンバーは全タンクに設置されていたが、そのほとんどは機能しなかった。このため、エアフォーム・チャンバーは火災警報システムと自動的に連動して作動すべきとされた。

 まとめ

■ この論文では、日本における地震の歴史とその地震による石油コンビナートの被災状況についてまとめた。

■ 1964年新潟地震では、大型の石油タンクが火災に至り、原油および燃料油を貯蔵していたタンクのいくつかはボイルオーバーが発生した。地震と津波によって新潟市は甚大な被害を受けたが、火災の消防活動時には、東京消防庁の尽力もあってケガをした人はほとんどいなかった。

■ 2011年における東日本大震災は、地震のような自然災害時に私たちが危険に直面するということを再認識させた。

補 足                                                                          

■「消防研究センター」(National Research Institute of Fire and Disaster)は消防庁の研究機関で、火災原因究明のための調査・試験や消防資機材の開発など消防の科学技術に関する研究開発を総合的に行っている。もともと1948年に創設された「消防研究所」が前身で長い歴史をもった機関であるが、現在は消防庁消防大学校に設置されている形となっている。著者の古積博氏と岩田雄策氏は消防研究センターの危険性物質研究室に所属する専門家である。古積氏はボイルオーバーを専門分野の一つとして研究され、多くの論文を発表されている。

■「昭和石油 新潟製油所」は1953年に建設され、 40,000バレル/日の精製能力があったが、1999年に精製装置は停止され、現在は「新潟石油製品輸入基地」として石油タンク基地となっている。「昭和石油」は1985年にロイヤル・ダッチ・シェル傘下のシェル・ペトロリウムと合併し、「昭和シェル石油」と改称されている。なお、旧新潟製油所跡地には、2010年、太陽光発電施設「新潟雪国型メガソーラー発電所」の稼働を開始させ、日本の石油元売大手が商業用の太陽光発電事業に初めて着手するケースとなり、2012年にはさらに増強し、現在8MW規模のメガソーラー発電所となっている。一方、新潟地震時に火災発生のなかった日本石油新潟製油所(26,000バレル/日)も1999年に精製装置を停止している。

■ 昭和石油新潟製油所の火災に関する消防活動は、予防時報「新潟地震に伴う昭和石油製油所火災戦闘記」、小野寺慶治(196410月発行)に詳しく述べられている。(残念なことに、ブロック分けとタンク番号を記載した図が添付されていない) 小野寺氏は、当時、東京消防庁消防監として派遣部隊の本部長として現場活動に参画し、地震による損傷と津波による被害を含む広域のタンク火災という過酷な条件の中で、現在からみれば貧弱な消防資機材でよく奮闘されていることがわかる。火災の消火活動で得た19項目の教訓が述べられており、広域の複数タンク火災に直面した経験は現時点でも参考になる。以下にその例を列記する。

 ● タンク容量、現在量、油種などを早く調査して消火活動の重点を決定し、対応部隊を決定しなければならない。しかも、未燃タンクの受ける温度を測定し、タンクの温度を測定し、さらにその後の変動をいち早く察知しなければならない。

 ● タンクの油量が少なければ少ないほど、内部ガス圧が加熱により急激膨張をなし、タンク屋根が噴き飛んだり、あるいは屋根が裂けて口をあける。 

 ● 燃焼しているタンク側板は、油レベルまでは変色しないが、上部燃焼部分は焼けさびとなる。さらに長時間燃え続けると、タンク側板上方は溶解して内部へ垂れ下がり、屋根部のないタンクでは油量が少なくなるにつれて低くなり、高さ34mくらいで止まる。また、屋根部が口を開けて燃え続けるタンクは、その部分がゆがみ、肩部が下がって変形する。この場合、タンク内部は不完全燃焼のため、火勢は弱い。

 ● 堤内火災で、配管のバルブやタンクの下部マンホールが長時間火災に曝されると、パッキンや締付けボルトが狂い、漏油するようになり、これがまた燃え続ける。

 ● 屋根部の飛んだタンクは、大きく口を開けて燃え、ときどき爆音を発する。これは、燃焼中に風のため空気がよく入り、完全燃焼する時に起きるものであり、またタンクの内部は空気の流通が悪いため、火勢は弱いが、縁から上方は急激に完全燃焼を起こし、上昇速度が非常に速い。従って、射程の短い泡放射を行っても、タンク内に泡は入らず、飛ばされてしまう。(タンクが高い場合)

 ● 燃焼しているタンクから受ける輻射熱は相当高温であるが、空気の対流作用が激しいため、周囲から流入する冷たい空気のため呼吸は楽である。

 ● 注水によるタンク冷却は効果があるが、防油堤内の排水を考慮しなければならない。水位が高まり、防油堤の外に漏れ出し、火面を広げないように留意すべきである。防油堤が地震によって壊れている箇所があった。

 ● 地上流出油火災は噴霧消火で十分効果をあげられるが、広範囲の火災には、その幅だけの噴霧ノズルを用いないと、側面から火が回り、退路を遮断される危険があるので、消火した部分を土砂などにより区切って行くようにするのが大切である。

 ● 筒先隊員はもちろん指揮者も機関員も平常火災と同じ人数では、長時間高温下の活動には耐えられない。常識的に考えて、指揮者と機関員は2人宛とし、筒先担当者は9名以上として3班に分け、1020分宛交代させるようにしなければ、隊員の疲労がかさみ、危険である。

 ● 長時間かつ灼熱下での活動では、消火ノズルは方向を変えられる固定式放水銃のようなものが必要だった。放射能力は1,500 L/min、射程4060m程度のものが必要である。東京消防庁の化学消防車のノズルは射程も短く、隊員が手で持つタイプであったから、疲労と危険が伴っていた。(注:当時の消火資機材のレベルが想像できる)

■「No.1103原油タンク」は、地震による油の揺動で油が側板を越えて溢流し、屋根とタンク側板が衝突したことによって火災が起こったものとみられるが、「昭和39年新潟地震昭和石油株式会社 新潟製油所火災」(消防庁)によると、「地震とともに屋根が34回側板より上方に揺動し、同時に上部から側板に沿って原油が周囲に溢流した。そして、4回目くらいの揺動時に火災が発生した」とある。

  No.1103タンクは容量30,000KLで直径51.5mであった。現在の消防法によると、必要な大容量泡放射砲の放水能力は20,000 L/minである。これは泡放射量約9.6 L/min・㎡に相当する。当時の消防車の性能では消火できないし、小野寺氏の要望した放射能力1,500 L/min程度では勿論、現在の大型化学消防車(放射能力3,000 L/min程度)を複数台配置しても消火できない。

 実際、燃え尽きる戦略がとられた。しかし、No.1103などのタンク群の西隣に主装置があり、さらに延焼を免れている製品油タンク群があった。このため、620日、燃え尽きる戦略のほかNo.1103タンクのボイルオーバーによる被害防止策として、タンク群と主装置間の道路に土砂による堤防を構築する戦術がとられた。この堤防(長さ200m、高さ70cm、幅1m)は、煙と熱気の中、自衛隊100名で約2時間余で構築されている。

■「1964年新潟地震」は新潟国体の終わった4日後に起こっている。そして、4ヵ月後に1964年東京オリンピック(1010日開会式)が開催された。地震直後は大きなニュースになったが、東京オリンピックがあったため、その後は地元以外に忘れられた感がある。しかし、現在、インターネットに投稿されている新潟地震に関する情報は少なくない。新潟地震による災害を表した写真の一部を以下に紹介する。


所 感20145月)

■ 1964年新潟地震があったことは知っているが、このように凄まじい災害だったとは思っていなかった。2011年東日本大震災前であれば、おそらく極めて稀な事例という位置づけで終わっていただろう。しかし、新潟地震の状況を見ていくと、東日本大震災時の津波による石油タンク損傷と油流出、LPガスタンク爆発・火災などの被災状況と重なる。

 現在は1964年当時より確かにタンク施設は強化され、消防資機材も充実した。しかし、今の石油タンクの事故想定は基本的に単発事故(タンク1基の事故)である。だが、単発事故に制限してくれる保証は何もない。 1964年新潟地震や2011年東日本大震災の事例をみると、堤内火災を伴ったタンク火災や複数基火災を仮想しておくべきである。

■ 消防資機材が充実したとはいえ、例えば、大容量泡放射砲システムは指定区域に1セット(最大タンクを対象)である。地震により同区域の複数基のタンクが全面火災になった場合、誰が、どのような判断でどこに大容量泡放射砲システムを送り込む決断をするのか考えておく必要がある。特に原油タンクはボイルオーバーが発生する可能性があり、余裕時間はない。今回、新潟地震における火災タンクのヒートウェーブ下降速度は0.25m/hと推算されているが、これは極めて稀な遅い例である。ヒートウェーブ下降速度の仮定値を設定し、ボイルオーバーの発生時間を推算して消火戦略を計画しなければならない。

所 感20218月)=泡消火剤のロジスティクス(兵站)活動=

■ 1964年新潟地震時における泡消火剤のロジスティクス(兵站)活動を示すインターネット情報が投稿されたことは興味深い。延べC-46輸送機×22機、C-130輸送機×5機により、約88KLの消火剤が空中投下されたとのことである。当時の化学消防車や泡モニターの能力から考えれば、これだけの泡消火剤があっても火災を制圧することはできなかっただろうことは容易に推測できる。

■ 現在、大容量泡放射砲システムが導入されたが、複数基のタンク火災への対応に課題があるほか、当初から指摘されていた搬送に関わる課題がある。この点、50年前に中古の輸送機で泡消火剤を運ぶというアイデアと実行力は大いに参考になるのではないだろうか。 

備 考

 本情報はつぎの情報に基づいてまとめたものである。

  ・「Multi-Boilover  Incidents in Oil and  Chemical Complexes in the 1964 Niigata Earthquakes, Loss Prevention Bulletin 231 June 2013        Hiroshi Koseki*, Gilles Dusserre**, Yusaku Iwata*       *National Research Institute of Fire and Disaster, Japan      ** Ecole des Mine d’Ales, France

      Trafficnews.jp,地獄のコンビナート火災へ向かった空自の老兵機&在日米軍機 知られざる51時間の死闘,   July  19,  2021

後 記: 今回の泡消火剤搬送のような情報は貴重です。本文は「乗り物ニュース」というインターネット情報ですが、このような情報があるのを知ったのは、Yahooニュース・ジャパンです。現在でも、火災事故における資機材のロジスティクス(兵站)活動をまとめて、それを公表(発表)することはほとんどありません。本ブログにどのように載せようか試案しましたが、別なブログにするよりも元のブログに追記しておく方がよいと考え、今回のような形にしました。しかし、初めて知った「乗り物ニュース」ですが、乗り物に興味をもっている人は多いのでしょう、かなり頻度高く情報を出しているようです。

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